「ブンミおじさんの森」について

 

美とは、人間の錯覚であり、また、一種のイリュージョンである。芸術と美の混同はこの点に於いて起こるのだが、互いに退っ引きならぬギリギリに至ってようやく作用する。但し、芸術は人生を生き抜く為の武器であり、美は死臭充満するところにしか現れぬ卑屈な幽霊であるという、甚だしい相違がある。芸術というとすぐさま美と結びつけるような輩は、おそらく美にあてられた中毒者か飛蚊症患者である。いずれにせよ一種の病気であろう。

アピチャッポン・ウィーラセタクンの「ブンミおじさんの森」を観て、触れた美の正体は、映画の舞台の森自体にある。鬱然たる未開の森には、空腹の獣や沈着な草食動物や奇矯な昆虫などの横溢せんばかりの生が、仲良いのかわるいのかは分からんが、とにかく共存している。しかしそうした皮相の森の裏には、生などは足元にも及ばぬ死の歴史があるのだ。気ままに繁茂した植物によって陽光の入らぬ木下闇には、亡霊たちが集合して生の様子を見ている。かかる生死の渾然たる森には、不倫の写真を突きつけられたような説得力があった。その証拠に(とはいえ情況証拠に過ぎないが)、「ブンミおじさんの森」には照明に寄ってきてしまう不埒な虫共以外の生物はほとんど出てこないのだ。冒頭の水牛はブンミおじさんの前世の前世だというし、中盤の犬は完全に飼育された動物であるから例外である。生物が出てこない代わりに、幽霊や猿の精霊が登場するのだから、かなり意図的であるようだ。
冒頭の牛の逃走と、途中の女王の挿話は、両方ブンミおじさんの前世であるらしい。それだからブンミおじさんの魂は死に絆され、死に魅入られる性格があったのだ。はじめの水牛はおそらく家畜で大木に紐で繋がれているのだが、必死のジタバタで紐を切断することに成功し、草原を走って逃げ、数分後に森の中で飼主に捕縛される。家畜にとって人間は死の象徴だ。食肉になるならぬは関係なく、有無を言わさぬ奴隷扱いは緩慢な死刑である。そこから抜け出して、生の森へ帰り、死の人間の元へ連れ戻される。逆らうとどんな目に遭うのか知れたものではないので、水牛も不承不承人間についていく。死の野次馬ばかりしている猿の精霊が映されることからも、これは水牛の死である筈だ。それから、次のあばた面の女王は、水牛の受動的な死とは反対で、ナマズの声に唆されて、色白で可憐な少女に転生すべく、自ら池の中へ押し入って溺死を遂げる。このナマズも死への誘惑者として機能しているので、あまり生を感じさせぬ。「ずっとあなたを見ていた」という台詞も、オバケじみた理不尽な腕力を思わせる。ナマズの甘言に胸をつかれ、恋人の好みに適うような外見を与えるようナマズに祈りながら上着を脱いで水中に入っていく。汀から離れる毎にジャラジャラ纏っていた装飾を外していって布一枚の状態になり、水上に仰向けに浮かぶ。そして女王の股の間でナマズが翻る。このシーンの意味はまだイマイチ分かっていないが、切羽詰まって如何とも立ち行かなくなった人間が起こす自殺に似た行為であると感じた。しかし女王の願い能わず、次なる魂の容れ物は、後年腎臓をいわすことになるただの男であった。これ悲しむべし。水牛と女王の生まれ変わりであるブンミおじさんは、死に絆され死に誘惑され死に自ずから向かっていく。どてっ腹に空いた透析用の穴を指して「これはおれのカルマなんだ」と言っていた。御国の命で共産主義者を殺害したことや、農場で殺虫を繰り返したことを悔いて、そのバチであると思っているような口ぶりであったが、ブンミおじさんの死は脈々と受け継がれてきた記憶によって起こったことだ。なにも因果応報ではない。死者の呼ぶ声が森に反響している。猿の精霊はブンミおじさんの最期に目を光らせていた。森の中でほとんど宿命的な死を迎えつつあるブンミおじさんは、洞窟の中で「いままで忘れていたが、おれはここで産まれたのだ」というようなことを言う。この台詞も、森が死の象徴と考えれば簡単に説明がつく。ちょっと独善的過ぎるかな。
ともかく、おれはこの映画の筋を追っていたわけじゃないから、十全説明できる自信はないが、美の存在だけは感じえた。これまで美しいという感覚が一切分からぬ片輪者であったから、これは結構すごいことだ。欠損した指で物を掴んだ感覚である。アピチャッポン・ウィーラセタクン、美のことを教えてくれてありがとう。

 

分かる映画

音楽は本能のもので、文学は理性のものであるというのがおれの持論である。そのふたつ以外にも芸術はあるわけだが、生憎おれは絵や演劇や詩などがあまり分からないから、銘々の位置も知れない。いつか分かるようになれば重畳であるというような頼りない心持ちで、自ら分かるまで触れてみようという気はどうも起こらない。無論、分からないとはいえ、衝撃を受けるような作品に出会ったことはあるが、しかし、作者にまで関心がいかぬから、分かったとは軽はずみに言えんのですよ。おれは馬鹿だが恥知らずではないつもりです。ここで、分かるも分からないも面白いも面白くないもあやふやな芸術が登場する。少しもったいぶったような言い方をしたが、わざわざ焦らす要もないし華々しい演出なんかを用意してやるのも癪なのであっさり言ってしまうとして、その芸術の正体は、まあ、Bang! 映画である。驚いた? ピストルを撃ってみました。映画は明確な総合芸術であるから、構図や劇伴、人物の言動など、ひとつひとつの要素にあらゆる芸術の文法を捩じ込むことができる。野蛮ですねえ。しかし、そうした芸術のごった煮は、快・不快のどちらにも作用しうる。処方のやり方如何、患者如何によって、毒にも薬にもなりうる劇薬的な性格を持っているのだ。大体二時間前後、抜かりなく作り上げねばならんわけです。そればかりか、人間の役に生身の人間を使わねばならんのだから、大変だ。役者がうまい具合に底上げしている場合もあるけれど、まあ、肉体肉声でやっているわけだから、合切意のままともいかんだろう。映画は芸術の難関であると思える。映画が皆んなこの難関をくぐり抜けているとは言いがたい。というか、まあ、ほとんどが難関の渦中であたふたしている。映画にも大衆向けとそうでないものがあるのだろうが、文学に比べてその差はあいまいだと感じる。安部公房が1958年頃に「いわゆる中間小説は、とうてい芸術論の対象になどなりえないが、映画はこうした娯楽作品でさえ、けっこう芸術論の課題たりうる。」と言っていたが、今日の映画はこの性質を保ちつつ、更に枝分かれしているように思う。確かに当時よりは、はるかに映画は芸術として認められている。むしろ文学などは下火も下火、幽霊としてなんとか生き長らえているような始末で、映画の方がよっぽど芸術として評価されている印象だ。映画館も増えて、イオンシネマなんてものもあり、毎年話題作が現れ、社会現象とまで呼ばれたりする。だが、発達というのは、一方で粗製濫造という災いの種でもあるのだ。つまり、大衆への認知の当然の結果として凡作愚作が鼠算式に増え、より卑近になったわけです。元々映画は観念的ではありづらい。観客が想像するまでもなく、人間は人間として、動きは動きとして、風景は風景として、見せなくちゃ成立しないものだから。どんなに深遠な哲学を語っていても、その主人公は顔と声を持った人間であるし、背景にはなんてことないつまらぬ建物がある。内容にともなった誇張が許されぬ。映画はちぐはぐな芸術であるのだ。このちぐはぐがあやふやの印象の親である。一見陳腐だが、主人公とっては甚大な出来事は、その一見の陳腐さに飲み込まれることが多々ある。無理にこじつけもできようが、しかしその一見陳腐であるという印象は中々拭えないものだ。たとえば、その出来事をやけに乱れたカメラで撮り、そこに派手なCGを加えて、主人公の心情をナレーションを乗っけてみれば、甚大の加減は表現できるかもしれぬが、それではなんか、よく分からなくなってしまう。映画はちぐはぐであやふやなさりげない芸術であるというのがおれの感想である。アクションが過ぎるアクション映画は例外としてね。と、まあ、年間百本見るか見ないかのおれが映画のあり方についてくどくど喋々していても仕様がないので、そろそろ本題に入るが、以上の理由で、映画は分からないものがほとんどだ。物語は追えても、ちぐはぐでどうしたらいいのか判然としない。しかし、中には分かるものもある。監督や脚本家の意図を十全解説できるというわけでもないが、とにかく分かるものがある。今回は特に分かる五本を紹介しようと思う。順不同ですよ。それと、文中で物語の顚末を大胆に明かしていくかも分かりませんので、注意を怠らないでください。おれはいつでもやっちまう構えである。いやはや。ヘビと前置き、長すぎる。

 

ストップ・メイキング・センス 1984

f:id:samedatote:20170402030847j:image

今朝訃報が知らされたジョナサン・デミ監督による、ニューヨーク・パンクのバケモノ Talking Headsのライブ映画です。ライブ映画なので、無論話の筋も登場人物もありません。それだから最前から言っている、ちぐはぐやあやふやの心配はないのです。はなから斯様な安全牌に走ったせいで、情けないキツネに呼ばわりされてしまうかもしれんが、まあ、そういう映画はこれだけだから、堪忍してください。

上の画像より、デヴィッド・バーンが大きすぎるスーツを着て踊っている写真が有名ですが、このジャケットの方が、おれは、ファニー・ゲームみたいで好きなんですよ。ファニー・ゲーム自体はそこまでであるけど。

ストップ・メイキング・センスは、上映時間の約90分間、インタビューやドキュメンタリーなどは一切なく、ただひたすらTalking Headsと仲間の黒人5人が演奏して、歌って、踊りまくるだけの好ましい映画であります🐸 活力の他にはなにもない映像と共に、複雑なアフロビートの楽曲を90分間聴いてごらんなさい。おかしくなりますよ。Speaking In Tonguesが出た後に行われたツアーなので、とんでもアルバム Remain In Lightの曲もたくさん演奏される。オリジナルメンバー以外を全員黒人で固めていることからも瞭然であるが、この頃のTalking Headsは完全に頭がおかしい。薬物をやっていないと、説明がつかない。荒々しいアフロビートと裏腹に、舞台に徹底された美意識、デヴィッド・バーン神経症じみた歌声、ティナ・ウェイマスの前進も後退もしない歩行のような変な動き、とんでもない腕前のサポートの黒人がいるからあまりギターを弾かせてもらっていないジェリー・ハリソンの不憫な苦笑い、デヴィッド・バーンがビッグスーツを着るまでの繋ぎで発揮されるクリス・フランツの空元気……Stop Making Sense! タイトル通り、この映画には意味がひとつもない。この場に人間関係なんて存在しない。演者も観客もない、単純なひとつの行動なのだ。Stop Making Sense! デヴィッド・バーンが歌う詩には意味があるのだろうが、デヴィッド・バーンもそんなものは毫も意識していないだろう。歌は詩に先立つ。Stop Making Sense! この映画はどんな思想とも結びつけられぬ。一個の完成した無意味である。一個の完成した芸術である。

 

 

ほえる犬は噛まない 2000

f:id:samedatote:20170402035731j:image

殺人の追憶母なる証明で有名なポン・ジュノの長編デビュー作、且つ最も変テコな映画である。物語はあってないようなものだ。説明しろと言われても困ってしまうが、努力します。おれはひとりで会話をすることがある。ある団地で飼犬が連続で失踪し、その犯人と犯人を追う事務員の女の、うだつの上がらぬ毎日の話。これだけ。この犯人が主人公なのだが、犯人といっても、顔に傷跡のある髭面の極悪人というわけではなく、ただの益体もない普通の面構えの男であり、面構えのみならず内面も相当なもので、漫然と日々を過ごし、お偉いさんへの賄賂を工面できず中々大学の教授になれぬ男、心神喪失の気違いや、倒錯した卑劣漢であれば、まだ彼も救いがあるのだが(ヒーローに殺されれば済むので)、懶惰な生活に鬱屈しつつも、正気から抜け出せぬ人間だ。犬を絞めたり、高所から放ってしまうのも、それは、犬への愛情が他より稀薄なだけで、大いに限界に近づいてはいても、完全にいかれているわけではないのだ。可愛げの塊、ペ・ドゥナ演じる団地の管理事務所の経理の女も似たようなものだ。彼女には、男と違って養うべき家族がおらんので、いくらでもダラダラと世間を日和見していればよいのだが、彼女は名誉を求むる欲求が旺盛で、強盗を撃退した銀行事務員のニュースに心底感心していて、歌手や女優などより、殊勝な銀行事務員に本気で憧れている。又、友達と破壊した他人の車のサイドミラーを、宝物みたいに抱えて電車に乗るような馬鹿だ。この両者からルサンチマンは感じない。ただなんとなく飽き足りないだけだ。嫉妬など暇潰しの役には立たないですよ。

事件は全て団地内で起こり、団地内で展開される。ペ・ドゥナが犯人を発見し、追い又追われる二度の追走劇は、階段と廊下を行き来するだけで、車もアクロバットなアクションもない。後藤明生の小説の如く、物語が団地からほとんど外に出ない。

斯様な鬱屈・退屈の日常への意趣返しや、焦燥からの奮起などには物語は進まず、要るのか要らんのかよく分からんような挿話がありつつ、緩慢な時間の流動のある地点で終わる。男は妻の退職金を賄賂にあてて大学の教授になり、女は犬の問題にかかずらってばかりいるので団地の経理を馘首される。完結のない話だ。そもそも問題がないから道理である。しかし、ともかくふたりとも団地からは解放された。後々どうなるかは知れぬが、とりあえずは黄色いパーカーやカッパは着ない。晴れ晴れとはしないし、名声欲は満たされえぬが、無味無臭の団地からは脱出したのだ。

おれはここから哲学や問いかけを受け取らない。共感もしない。思想のない芸術は、性欲を噯にも出さない友人のようで、付き合いやすい。こういった芸術とは、色情や共感と関わりのないところで、ふざけて遊ぶだけだ。

こう書くと現実味があるばかりで面白味に欠ける凡百の映画と思われるだろうが、まあ、とにかく、観てください。実際、映画的なことはほとんど起こらない。ピストルもやくざも出てこない。不思議な死体も現れない。重量のない文学のような映画ですが、しかし、妙ちくりんなユーモアが遍在する気っ風のいい映画ですよ。

 

 

デス・プルーフ in グラインドハウス 2007
f:id:samedatote:20170404000823j:image

人気の馬鹿、クエンティン・タランティーノの監督作品であり、これも又、筋もへちまもないとんでも映画である。これは、昔、タランティーノが若い頃、アメリカのピンク映画や粗雑なアクション映画を主として上映していたグラインドハウスという形態の映画館があって、そこでかかる映画の乱暴さ猥雑さに感銘を受け、そのグラインドハウス自体を丸々再現しようと試みた作品であるらしいが、そんなものはほとんど関係なく、単純に奇矯千万な作品であって、なんとなれば、上映時間の半分以上は彼氏とどうしただのあの頃はああだっただのの空疎で悶々とした女同士の会話で、もう半分はカーチェイスというふざけた構成だからである。

スタントマン・マイクという事故殺人に性的興奮を感じる気違いが、舳先にアヒルの飾りがついていて、ボンネットにばかに大きいドクロの塗装を施した、非常に悪趣味な車で、いずれも自らの肉体に浮かれた女共が運転している車を追走し衝突して、女共を散り散りにして殺害する。当然自らも気息奄々の大怪我を負ってはいるが、興奮しているからそんなことは問題外なのであろう。映画の中盤、このスタントマン・マイクと名乗る気違いが、事故後に入院している場面が傑作で、スタントマン・マイク自身は治療され意識を失っている状態であるから、奥の方で機材に囲まれて眠っているだけなのであるが、事件の匂いを嗅ぎつけたホオジロザメの如き警官の番が手帳を眺めながら、「かかる事故は、事故に見せかけた殺人であーる! このマイクという男は、交通事故を性的に愛してやまぬ異常者であり、今後も注意せねばならぬのであーる! 本官も少々探ってみようと思ーう!」と、やけに親切に事件の構造を語ってくれ、やがてスタントマン・マイクの最大の敵となるであろうことを示唆されるのだが、以後、作中でこの警官ふたりは一切顔を表さぬ。ただ、観客への理解の手助けをしただけなのだ。映画のことを教えてくれて、ありがとうございます。

グラインドハウスと呼ばれる映画館は、環境劣悪この上なく、フィルムが汚れ、使い物にならなくなっても、上手とは言えぬ糊塗をして、上映を続けていたらしく、だめになったフィルムを取り除き無理くり繋ぎ合わせて、映像が不器用に飛び飛びになっていたり、変色していたりすることが多々あったと言うが、この映画はわざわざそういったところまで再現していて、斯様な馬鹿げた苦心惨憺はとても好ましく思う。途中、突然画面が白黒になり、しばらくそのまま物語が進んで、あるひとりの女が自販機で購った飲み物が落下する音を契機にまたカラーに戻るのだが、別に白黒も映画的な効果をあげているわけでもなければ、カラーに戻ったときも、アッ戻ったという少々のビックリ以上の感動はないのだ。ナンセンス千万。素晴らしい。

なんといっても、この映画はラストシーンが最高なのであります🐸 全快したスタントマン・マイクが二度目の襲撃を起こすのだが、相手が存外逞しい強かな女性連中であった為に、あえなく失敗してしまう。肩口を撃たれ、腕を骨折し、悲惨極まりない状態のスタントマン・マイクは、無慈悲な女たちに車から引き摺り出され、一人ひとりにとにかく殴られる。各々の打擲の音とスタントマン・マイクの情けない喘ぎ声が合わさって非常に小気味いいリズムが続き、限界を迎えたスタントマン・マイクが転倒したと同時に、ババーンという音がなり馬鹿でかいENDの文字が出る。それだけでも満足なのだが、その後にApril Marchという阿呆みたいな声の女が歌うChick Habitという阿呆みたいな曲が流れて映画が終わるのだ。あまりのことに笑うより手立てがない。この映画には教訓も物語もない。ただ骨子だけがあり、その隙間は意味のない会話とカーチェイスで埋められている。最後に女性側が勝つから、フェミニズム的な見方をしている人がたまにいるが、だとしたら女性同士の会話をいたずらに長く、又滑稽に描きすぎているので、少し無理があるだろう。圧倒的なナンセンスの応酬に、こじつけのひとつも能わない。おれもこの映画を観た後は、考えることが馬鹿らしくて仕方なかった。

他のタランティーノの作品だと、フォー・ルームスというオムニバス映画の監督作も同様に、骨子ばかりがあるナンセンスな映画であった。タランティーノの作品だけ観ても構わないが、それ以前の三本もしっかり観ておくと、ナンセンスへの耐性がナンセンスに打ち克つ、という構図がハッキリしてきて、カンゲキしますよ。

 

 

カンゾー先生 1998

f:id:samedatote:20170409015814j:image

カンゾー先生は、坂口安吾の「肝臓先生」「行雲流水」「堕落論」などを下敷きに作られた、今村昌平の映画である。これは、ようやく筋があるのだが、時折物語を破って登場人物の感情が甚だしき飛躍をするときがあり、これが実に坂口安吾らしい飛躍で、好ましいです。ここから、おれの坂口安吾に対する思いを披瀝してしまうのも手であるが、まあそれは、また別の機会にします。

ともかく、カンゾー先生には筋はあるのだが、おれはこの話の筋にカンドーしたわけではないから、省略します。どうもメンドーでなあ。こう、省略を続けて空文ばかりが溢れると、この映画自体が軽視されてしまうおそれがありますので、そろそろ美点について話しますが、まず、セリフが素晴らしいのですよ。苦心惨憺の末に獲得した肝臓のバクテリアを、努々思わぬ僥倖で獲得した顕微鏡でもって半日に及ぶ観察を続けているカンゾー先生に、看護婦の麻生久美子が飯を持ってきながら言う「先生は変わっとるなあ。飯も食わんとバクテリ見とるんか」という間抜けなセリフが、麻生久美子の声の調子と相まって、輪をかけて間抜けに聞こえる場面があるのだが、おれは既に、あの場面だけで満点をあげてしまっている。だからもう言うことはない。面目無い。しかし、その他にも変なユーモアが突如顔を表すので、見て損はなし。ラストシーンも、麻生久美子が不意に妙な気を起こして鯨をひっ捕らえようと海に飛び込み、結句失敗し、遠くで原爆が投下され、キノコ雲が肝臓の形に似ているとカンゾー先生が思うという、もはや間抜けでは片づけられない飛躍をしているので、助かりますヨ。今村昌平はこういうところが信頼できますねえ。あ、信頼できるのであります🐸

 

 

ルパン三世 ルパンVS複製人間 1978

f:id:samedatote:20170427235745j:image

これは、言うまでもなく、劇場版ルパン三世シリーズの一作目の映画であるが、一作目にして最高傑作ができてしまっている。しかし、カリオストロの城の人気に追いやられて、「ああ、金曜ロードショーでよくやってますねえ」で片付けられてしまう作品でもあるのだ。カリオストロの城がなんぼのもんじゃい、宮崎駿がなんだ、あんなもん、真っ白けじゃないか。と、啖呵を切ってみたが、おれはカリオストロの城カリオストロの城で、まあ好きですよ。今更あらすじなんか説明するような映画ではないと思うので、そこらへんはWikipediaに任せるとして、いきなりオチの話をしてしまおう。マモーは複製人間である。爺みたいな口調とは裏腹に幼児よろしく矮小な身体をしていて、しかし顔は口調に適ったしわくちゃで、又、薄紫色である(これは爺とか、そういうのじゃないけど)。不二子を拐かす上に、なにやらおぞましいクローンの研究をして、地球をひっくり返そうとしてやがるので、ルパンも黙っていられず、マモーに手をかける。ところが、中々死なぬ。タフだからではなく、単にマモー自体が複製人間で、大勢いるからだ。クローンの研究の賜物である。さてそれで、マモーの実体、マモーのオリジナルはなにかというと、これが全然理解できないのだが、巨大な脳みそなのである。最終的にマモー(馬鹿でかい脳みそ)は、全体をガラスかなんかで覆い、ロケットで宇宙に向かう。わざわざ宇宙へ行く理由は忘れてしまったが、どんな理由であれ、これは頓挫する。なんとなれば、ルパンが飛び立つ前に時限爆弾を仕掛けておいたからだ。脳みそ相手に酷なことをする。それに気がつかぬマモー(Big Brain)は、大気圏を抜けロケットを切り離して、しばらく悠々と宇宙をたゆたうのだが、やがて太陽だか月だかの天体の前で爆発・分裂・四散する。デブリがすごいことですよ、人間は罪だねえ。まあ、いずれ八郎太たちが掃除するからいいのかもしれぬ(このように、ルパンとプラネテスの世界が繋がっていると思ってる人がいたら、恐ろしいぜ)。ともかく、これはカメラで撮った映画ではありえない映画だ。巨大な脳みそはCGを使えば作れるかも分からぬが、少し空々しいだろう。まあ絵だからという建前で、メチャクチャやっている。こちらもアニメと承知で観ているから、特に空々しくは感ぜぬ。脳みその描写以外にも、アニメでしか出来えぬやり方で、アニメでしか出来えぬシーンを作っている。アニメという手法をとことんまで突き詰めた大作。その心意気、恰好いいじゃないの。おれは、恰好いいものが好きなんだ。

この映画は吉川惣司という人が監督しているらしいが、アニメに於いて監督がどういう仕事をしてるか分からぬので、これといって調べてない。ごめんなさい。ともあれ、これで終わりであります🐸 一貫しているのか、していないのか。どうだろね。

銭ゲバ大家、無情に非ず

 

アアラ、酷いねえ。アンタ、こりゃ酷いよ。まったく参っちゃうわよねえ、ここまでされちゃうと、サスガにねえ。たしかに入居するときに「好きに生活して構わないからね」と言ったのはワタシだけどねえ、限度ってもんがあるでしょう。ほら、壁もなんなのアレ。なんて書いてあるの。ワタシには「臓器ありがとう」って書いてあるように見えるんだけど、まさか「臓器ありがとう」だなんてねえ。ワタシだってもうすっかり老眼になっちまってるから、見間違いだとは思うけどねえ。ア、やっぱり「臓器ありがとう」って書いてあるのね。あんだけ大きく書かれてたら、いくら老眼とはいえど見えるもんだねえ。まあ臓器がありがたい気持ちはワタシにも分からなくもないけどねえ。ワタシだってほら、もう若くないから毎日のように病院行くようになっちゃったんだけどね、いろんな臓器悪くして分かるのよ。人間、臓器なくちゃやってけないってねえ。しかしねえ、借家の壁に書くもの? え? 鉛筆で書いたの? アンタ、鉛筆とはいえねえ、あれじゃあしっかり跡は残っちゃうでしょう。たとえうっすらであったとしても、「臓器ありがとう」って書いてあったと知られちゃマズいのよねえ。世間体ってものがあるでしょう。ちょっとアンタ、ミルクティー飲んでんじゃないわよ。人が文句つけてるんだから。ところでアンタ、床に無数の穴ぼこが明いてるのはアンタがやったわけ? そうよねえ、前ここに住んでらした方は床使わない人だったから、床に穴ぼこが明く筈がないのよねえ。しかも無数にねえ。アンタ、フローリングだってタダじゃないのよ、分かる? 分かるわよねえ、アンタだって立派な大人だものねえ。この穴ぼこの深さはどれくらいなの? それによって埋めるか、張り替えるかが変わってくるのよねえ。はやいとこ教えてくれないと。とことん深い? とことん? そうねえ、まいったわねえ。とことん深くちゃ、埋めた方がかえって費用がかかっちゃうかも知れないねえ。ウーン、一体どうしてなの? どういうわけがあって、借家の床をとことんまで掘っちゃったわけ? しかも無数にさあ。「モグラがちょっと……」ったってねえ。モグラのせいにするんじゃないわよ。そもそもアンタ、ここ動物の飼育は許してないんだよねえ。はじめに言わなかったっけねえ。そうよねえ、言ったわよねえ。「飼っていたのと違う」ってアンタ、嘘はよくないわよ。つまりじゃあなに、モグラが闖入してきて勝手に気が済むまで掘っていったってことなの? 床を? 外でもできることなのに? 違うわよねえ、おかしいものねえ。いや、「モグラが趣味でして……」って、そりゃアンタ、つまりは飼ってたってことでしょう? 駄目よ、言い逃れは。潔くないもの。男は潔くなくっちゃ。ワタシは潔い男が好き。それじゃあ、壁も床もアンタの勝手でこんなにしたってことでいいわね? そう。もうこの調子じゃあ、ふたつとも新調しなくちゃだから、お引越しするなら四兆万、ちゃんと耳揃えてワタシのところに持っておいで。そうでなくちゃ、棍棒でハチャメチャにしてやるんだから。痛いわよ、棍棒。無骨そのものなんだから。まったくもう。なにかにおうわね。そのミルクティー腐ってるんじゃないの。美味しいったって、アンタ。飲むのやめなさい。おなか壊しちゃってもいいわけ?

【短評】都市の駅

 

都市の駅はすり抜けるものだ。電車の乗降や、排泄や、仕事や、食事や、買い物をするところではない。ゴムの脳みそにウロウロ動かされている馬鹿や、鉛の如き体を引き摺る女や、油切れのブリキの老人や、往来の中心で立ち止まって手を振り振りサヨナラをするいかれた連中の間隙を必死で睨みつけて猫か蝿か突風に変身してすり抜けるところだ。別段急いてなくとも一定の速度を保って隙間を発見し左右しながら進むものである。その為、前方が突然大便のように詰まり、右にも左にも入り込む余地がない場合、速度を緩めることが能わず、他者の踵を巻き込むことになるが、その際にはおれは猫や蝿や突風から芝刈り機に形を変えることとなる。都市の駅ではともすると芝刈り機になってしまうおそれがあるので十分な注意が必要である。朝夕は芝刈り機への変身が増えて、おれはどうも心が擦れてしまうから、昼下がりや夜更け前を選んで改札に入るのだが、これは駅の利用が移動ではなくすり抜けることであるという、なによりの証左であろう。少なくとも、おれにとってはそうであり、渋谷駅で友人と待ち合わせをするときなどは、ハチ公へ向かっている間に、人々のホウ酸団子の渦に巻き込まれて正気を失い、待ち合わせのことはすっかり打ち忘れ、すり抜けることに躍起になってしまって、気がつくと待ち合わせの時刻に遅れるばかりか、終電すらも無くなっているということがしばしばである。別にすり抜けることがおれの至上の楽しみであるわけではないが、貧乏根性というか、せっかく都市の駅に来たのだから存分にすり抜けてやろうという悪心が我が頭を汚染して、ハイヒールの女とヨイヨイの老人や、口を開けて中天を覗くガキと笑っている若いつんぼの男や、ノロノロ転がる大きなゴム毬と昼食中のカマキリや、豚の番いの空隙を見つけ、するりと一陣の風となりて吹き抜ける度に、神から加点をされているような気分になる。正気に戻ってから思い返すと、天上で厳かに鎮座する神が人混みの中を必死の面魂でくぐり抜ける小男を見て、一点なり三点なり五点なりの札をあげるわけがありゃせんことは明白なのであるが、どうも、ひとたび駅に入ると、そうした勝ち敗けの世界であるように思えるのだ。

これまで都市の駅について、殊に都市の駅に於けるすり抜けについて述べてきた。すり抜けの勝負という立場から都市の駅を見ると、実に蠱惑的である。

しかし、都市の駅を評するにあたって、斯様な独善的な判断は禁物である。評価というのは公平でなくてはならん。然して、文学・音楽・映画・絵画・科学・化学・動物学・数学・語学などの、様々な観点から都市の駅を鑑みると、いずれの場合にもなにやら灰色がかった詮無いものとしてしか映らぬのである。従って、都市の駅は百点満点中、せいぜい十点くらいが適当であろう。この十という数字は、とはいえ都市の駅は移動に便利であるから、という個人的な同情の念を含めて割り出した数字である。

強烈なるフライングV

 

 

水曜の昼下がり、おれは尋常の通り出勤をした。おれ自身は尋常の通りであったのだが、ひとつ尋常でないことがあった。二階の事務所内を、一匹のトンボがパトカーの如き激しさで危険を訴えながら、白バイの如き鋭さでアチコチ飛び回っていたのだ。コンピューターと電話と紙面にかかり切りで、事務所に巣食う半魚人共はてんで気づいておらず、パッチリ二重のおれだけがトンボの軌道を追っていた。「今日はだめだぜ」「大安の水曜日は魔女の曜日よ」「魔女って、糞と豚の合いの子なのよ」「とんでもねえぜ! トンボでもねえぜ、ってな、ワハ」「狂ったチワワもいつもより来ることだしよ」「いやだわ」 おれには昆虫の雌雄が分からぬので、どちらでも対応できるように、言葉遣いをしっちゃかめっちゃかにしてあるが、ともかく、おれはトンボの言語を解するから、トンボの言うことならばなんでも聞き取れるのだ。これまで様々なトンボの声を聞いたが、大安の水曜が魔女の日であるとは知らなかった。最近できたばかりの決まりなのだろうか。しゃれている。蓋し、人間の間では流行らぬ考えだろう。中世であれば望みはあったかも分からぬが、我々現代人からすると、魔女というのは、あまりピンとこない。トンボの規則がトンボにしか通用しないように、最前のトンボの警告も、どうせトンボにしか通用せんであろうと思い、おれはさして気にせず階下の広間に向かった。映画館のアルバイトは楽々だ。とはいえ、やはり都心の映画館であればそうはいかぬだろう。なんとなれば、都心だから。然らば、地方へ行けば行くほど楽チンなのか、と思うやもしれんが、地方は地方で、そもそもの映画館の数が少ないから、カッペが雲集して大変らしいよ。おれは東京の都心からちょっと外れたシネコンが一等空いてると見ている。現に我が職場は、年の半分は閑古鳥が爆笑しているし、アルバイト同士は閑談をしている。
この大安の水曜日も例の如くであった。入場を待っている客は広間にチラホラ目につくばかりで、入場券を購う人もそのときは三人しかいなかった。数時間前からシャカリキを演じて退屈しきっている早番連中に目礼しつつ、おれは帳面を手にとって、映画の宣伝に関する情報を眺めていた。どうやら上のやつらは、誰が得するのかよく分からぬ新作映画のキャンペーンを行うらしい。あら、そう。人間は皆んな承知していると思うが、キャンペーンというものの正体とは、ちょっとのことでは家内から出てこない吝嗇のミドリガメや、無関心のバッタ、その辺の犬コロに向かって、細かくちぎった金銀をばら撒いて音を立て、どうにか注目を集めんとするお調子者である。必死の佯狂である。やつらは、はなから好事のトリケラトプスを相手にしていないし、無論トリケラトプス自身もそんなものには興味がない。彼らは金銀でなく、新鮮な草が食べたいのである。おれは、草食で襲われる見込みが少なく、又、映画という酔狂を好むトリケラトプスと友達になれば万事解決であると思うのだが、なんか、そうもいかないらしい。人間風情にゃよく分からん話か、などとパンク気取りで考えている折、「なんかー、生理がこないんですよねえ」と、おれの隣に立っていた年増の主婦のスタッフに向かって、ちょうど糞と豚の合いの子のような太った女学生のスタッフが一方的に話していたのが耳に入った。数人とはいえ客が近くにいる状況で、またぐらの話をしてるとは努々信じられなかったので、おれはウサギに変身した。白に灰色の混じったウサギである。「もしかしたら妊娠したかもなんですよねえ。生理が一日遅れてて……」「大丈夫? 最近具合わるかったりするの?」「いや多分、彼氏かなあ。やばい……」 ウサギに変身していたから、いつもより周囲の音がハッキリと聞こえた。おれの頭上で暖房が鳴っている。自動扉が開いて、閉まりかけて、再び開いた。女性用便所では今、六人が用を足していて、男性用便所は二人だ。館内を白蟻が闊歩している。地下ではもぐらがキリンジを歌っている。明日の方向から雨雲が迫ってきている。冬が軋み、春が地図を片手に近づいている。それと、やはりこの馬鹿は自らのまたぐら関係の話をしている! しかも、どこか殊勝げな声色である! この女は、気違いだ! おれは震えていた。いまのおれはウサギだから、多少敏感になってしまっているのかもしれないと、あわてて人間に戻ってみたが、依然震えたままであった。確かにあの気違い女のこれまでの発言や振るまいからは常に莫連の予感があって、おれは、まあ好きではないし気持ちわるいから関わらんでおこうと考えていた。しかし、いままでは震えが起こらなかった。きっとおれは、莫連自体にアレルギーを持っているわけではないのだ。つまり、おれは、気違いとその彼氏との漁色と肉慾の行為を想像して、慄いているのではなく、このとことんまでいかれてしまっている女の「彼氏との交わりが原因で妊娠って、かっちょいいでしょう。憧れるでしょう。アナーキーでロックンロールでしょう。私は強い女性の代表よ。その証拠に、今日はレディースデーじゃないの。1100円なのよ」とでも言いたげな口吻に怯懦していたのだ。それをなぜか子持ちの主婦にひけらかすという、いささか倒錯した手口も、より恐ろしい。いやしかし、こんな独りよがりの偏見で人を気違いだなんて言ってはだめだ…… たとえ、太り過ぎが原因か、年がら年中顔面に原理の分からぬ赤みが差していて、ミシュランマンにそっくりの体型をした女が、自分のまたぐらの話を割合大きな声でしていたとしてもだ!
おれはその後、自らの独善的な管見を恥じ入り、頭の中でトンボに不信の詫びを入れながら、静かに業務をこなして二十二時頃に退勤した。翌日も遅番のシフトが入っていたので、不承不承、電車を乗り継ぎ出勤をした。今日はミシュランの女はいない筈であるし、大したことは起こらないだろうと安心していた。予想通り、泰平無事で余裕があったので、遅番を同じくする男のスタッフと話をしていた。すると、彼が「そういえば、あの、妊娠の話聞いた?」とおれに言ってきたのだ。とりあえず知らんぷりをして、「や、知らないです」と応えたら、「いやね、何某さんがね、アレが遅れたとかで、妊娠したかもって話なんだけど、色んなところで色んな人にしてるらしくて、知ってるかなって」 おれは昨日、変に後手に回ったことを後悔した。あのいかれた莫連女はあらゆるところで自らのまたぐらの話を喋々しているというのだ。やはりあいつは、己の妊娠をロックンロールに於けるギターかフェミニズム躍進の為のカンフル剤かなにかだと思っていやがるのだ。気違いには気違いの理屈があるように、気違いには気違いのロックンロールがあるのだろう。否定はしない。おれには分からぬことだから。けれどもおれは、こういう人間を問答無用で牢屋に閉じ込められるようになりたいから王様になっちゃる。と、そう、決意した。

 

イエロウ

 

鬼という鬼が例外なく黄色になり、恰好がつかなくなってしまった。鬼は人々の笑いものになった。あれほど我々に怯懦していた弱虫どもが、我々のカラダの色が変わったからといって、なぜあれほどに威張れるのであろう。鬼たちは一様に、自らを鏡でとり囲み、反射した黄色のバケモノを笑った。そして黄色のバケモノが笑っていることに腹を立て、怒号を飛ばした。それから黄色のバケモノが必死でなんぞ叫んでいる様を見て、傴僂のように背中を丸めて大笑した。気が狂ったのだ。気違いになると、生き物は兇暴になる。無論鬼も兇暴になった。手当たり次第、猿を絞め殺し、猫を殴り殺し、蝶々を食べ、人に襲いかかった。しかしいくら兇暴といえど、気が違っているから、攻撃はメチャクチャである。ひたすら腕をぶん回しながら激突し、やたら雄叫びをあげるだけで、鬼気迫るものはあるが、鬼気迫っているから必ず強いという法もない。動物相手だったら歯止めの効かぬ腕力でどうにかなるかも分からぬが、武道を心得た人間にしてみれば、てんで格闘にならず、鬼たちは呆気なく空手の前に沈んだ。牢に入れられそうになり、這々の態で逃散した鬼は、皆んな符牒を合わせたかのように、山に籠りきりになってしまった。人目から離れて生活をやり直すというわけではない。気の触れた鬼が、そんなに健気である筈がない。鬼は銘々湿った木下闇で膝を抱え、こんな筈じゃなかっただとか、羸弱な人間などに負けるとは慚愧に堪えないだとか、空手めだとか、なぜおれたち鬼は黄色にだとか、ボソボソと呪詛の如く呟いているばかりであった。
次第に世情は変わってきた。黄色の鬼どものうらみつらみが堆積し、浮世に漂う窮窟な空気たるや。珍奇な黄色のカラダをしていても、鬼とだけあってその影響は凄まじく、海は濁り、魚は痩け、花々はただならぬ異臭を放ち、空は厚い雲に覆われ、蜂は常住坐臥嘔吐し続け、老人は寝たきりになり、子供は爬虫類の眼をして、ともかく散々であった。
黄色の鬼は恨むだけで、食糧を得る能がなかったから、やがて衰弱して絶滅した。しかし鬼の怨念は未だ衰えず、浮世を益々わるくした。海からは波が消えて、汚いゼリーになった。魚は痩けに痩け、糸のようになった後、無くなった。花々は腐り、太陽は無くなった。蜂は嘔吐を苦にして自殺した。老人も子供も青年も中年も、太陽が無くなったせいで、凍りついた。もう、どうにもならぬ。お祓いもまったく効かぬ。地球は、とうに終わってしまったのだ。

熊のコダワリ

 

こうじゃあ、いけないよなあ。おれが尋常の通り山道を歩く。人とバッタリと出くわす。あまりに唐突なことで半狂乱。食らう。こうじゃあ、いかん。どうしてかは分からんけど、ちょっと具合がわるいよなあ。おれがサッサと山道を歩く。人とバッタリ出くわす。さも意味ありげに肯く。向こうも厳しい顔で肯く。こうじゃなきゃなあ。どうもなあ。あんまりだよなあ。