Talking Heads

おれを四囲しているスズメバチの如く善悪を弁えぬ連中がわざわざ自ら社会的なる地獄に身を置いて、手に負えぬ怪力の鬼たちとの悪戦苦闘で困憊している様は、根源のハッキリせぬ患部を掻痒しながらカユいまだカユいと喚いている風だ。斯くも無惨な狂態を示して憚らぬ薄馬鹿共の横でおれがあまりに不条理な拷問を指して爆笑していると、想像力を担保に無味乾燥な配給を甘受している彼らは、痛みを堪えながら不謹慎を訴える。そんな無茶ができるなら、笑うことなど容易いだろうに。右脳をそっくり銀行に預けてしまっているからか、彼らはあらゆる物事にはひとつの顔しかありえないと考えているらしいのだ。ケルベロスに会ったら発狂するんじゃあるまいか。

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この世界では、性愛以外に救いはないという。彼らは堪えるのだ。交合と交合の空隙を。次の拷問を忍ぶ為に。怠惰で優しい肯定的な沈黙としての性、分かりやすい共犯関係としての性、ウソつきたちの必死の佯狂としての性、廉価版の愛としての性。全部同じだ。おそらく彼らにとっては快楽などは二の次で、それぞれ互いの尻尾を握り、我を孤独から救いたまえと祈ることこそが性愛なのだ。正しくないのは承知の上で、しかし他に手段はむずかしく、ウダウダと体位ばかりを試行錯誤しつづける。
祈りは祈りだ。堪ええぬ苦痛をなんとか堪えようと思うがこその絶叫だ。是非もくそもありやしない。アーメンが吐息に変わっただけだ。しかし彼らはただただ絶叫を繰り返し喉を涸らして、嗄れた声のせいで会話さえもままならない。実際に神がいるか否かはひとまず置いておいて、ともかく性愛の世界に神などいない。いるわけがない。彼らの絶叫は伝わらず、互いのからだにぶつかって消える。

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我々は衰える。耐えがたいスピードで。自我が徐々に薄れてゆき、やがて身だしなみを整える。それを成長と呼び給うな。それを善良と呼び給うな。見たいように見ることと、目を潰すことは同一じゃない。いずれ水際に行き着いてしまっても選択肢なんぞいくらでもある。

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「世界の終わりのあと、僕は電話ボックスにいる」。いくら電話をかけても、ほとんど応答はない。当たり前だ、世界の終わりのあとなのだから。みんな地獄で頑張っているのだ。しかし、ごくたまに電話が通じることがある。世界の終わりのあとなのに! 彼や彼女は、斯様な不毛の曠野にあっても自恃を失わず、見えぬ光に包まれている。魚の気分で生きながらえているのだ。
おれは多分、愛を知っている。自分の為だけじゃなく、彼や彼女の為に祈るときがある。きっと、おれも彼も彼女も、他の連中と同様に悟道に堕ちるだろう。しかし、われらはどこにあろうと見えぬ光の中にいる。圧倒的な暗闇を、月のない夜をおそれるな。すくんだそばから奪われる。これは決して果たされぬ約束だ。
われらはかならずすくわれる。不安や倦怠を握ったままで。

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挙句発酵

おれが慾をかいて買いすぎたおにぎりを恵まれない黒人たちに分け与えられたら、どれだけ素晴らしいだろう。海苔はあまり腐らないだろうが、米やシーチキン、鮭などは、確実に腐食が進んでおり、おれに食べられるために殺され、引き裂かれ、味つけまで為された食物は、とても食いえぬ美味しくもなければ栄養もない汚物に変容していく。その間、ガリガリに瘦せ細り、益々色黒になっていくアフリカのガキ共は明日の命を心配しながら眠りに就く。碌に教育も受けてない彼らの両親は、毎日必死で働いて、それでも満足に食べることは能わない。黒人の自殺というのは聞き慣れないが、それはおそらく彼らが自殺を思う暇もなく無惨にくたばっているからであり、自殺なんてものは結局裕福な者に与えられた自由の象徴でしかないのだ。この頃、中央線が止まり、待ちぼうけを食らうことが増えた。なんでも慾求不満の女共に、あらぬ痴漢を訴えられて、そのまま線路内に逃走し快速列車に撥ねられてしまう事故が多発しているらしい。笑けるぜ。この人痴漢です! って、それが事実かどうかは知らないが、その文言、どうかね。おれはもっと切羽詰まった悲鳴の方が、祭りみたいで楽しいと思う。それを、この人痴漢です! って、挨拶じゃないんだから。

「実際、追い詰められると混乱して悲鳴なんて滅多に出ないのよ。そういう決まり文句があった方が、勇気が出て叫びやすいものなの。」

「言葉が見つからないなら黙っていればいいのに。声なき声…… 勝手だね。」

「あなた、男だからそんな無責任なこと言えるのよ。実際、痴漢されたら、どんな気持になると思う? 人の気持も考えてみたらどうなの。」

「痴漢されたら、そりゃ、苦しいだろう。それくらいは分かるよ。」

「じゃあ、もうちょっと気遣ってあげてもいいんじゃない。実際にそういう目に遭ってる子もいるわけだし。」

おれは動物園で猿山を見ると、自分がこいつらに較べて格段に進歩していて、何倍も優れていることに気がついてうれしい思いがするのだ。

水族館でもそう。亀が特にいいよ。あとイルカ。ショーなんかで、水面から跳ね上がって空中の玉を突くところなんか、人間の悪心がよく表れてて最高な気分になる。亀の方は、なんとなくいいのだ。母性的で、惹かれるというか。

亀といえば、ドラゴンボールの一巻で、未成年のブルマが初対面の亀仙人と連れの海亀に向かって性器を露出する場面、あれは忘れられないね。あの無頓着な格好がいじらしくてたまらないんだ。

既に腐りきってしまったおにぎりには無数のハエがたかり、同様に餓死した黒人の死体にもハエがたかっている。痴漢された女や、無知なフェミニストの死体にも、そろそろウジが湧く頃だ。

ところで、猿やイルカも自慰をするって知ってる?

「下品なこと言わないでちょうだい。ご飯が不味くなるでしょう。」

ハエが雲集し、ナマコのようになった女が言う。

その横で、安っぽい弁当を片手に労働者が頷く。

大事件

このくそ暑い昼下がりに、河川敷の脇の鬱然たる草むらを、ハエ・蚊・蜂・バッタなど、おれにとっては益体もない性根の腐った虫共に襲われ又殺しながらも、止むに止まれず進んで行かねばならぬ苦労を誰が分かってくれようか。
「見つからないですねえ。どこにあるんだろ。」
この時期だとまだ見ぬがトンボもきらいだ。細すぎる。
「面倒なことしたなあ、まったく。」
カマキリも交尾の首尾が破壊的すぎるから、あまり関わりたくない。なにも好んでかかる草むらで鬱々と蟠っているわけではない。
「左手首なんて、すぐ見つかりそうなもんだけどなあ。」
斯様な高気温・高湿度のマザファカ曜日に、自ら手入れのされていない草むらに進入していくようなやつは、気違いとガキと昆虫学者くらいなもので、いずれにせよ、三者に大した変わりはない。おれはバカじゃないから、こうした無益な疲労を是としない。自らここへ来たわけじゃないのだ。
「どうです、刑事さん。前にもこんなことあったりしましたか。」「うるさい。今はまだ導入部なのだ。後で紹介するから、なるべく大人しくしていろ。しかし、おれもこんなのは初めてだよ。」
本日の未明、鬼殺県暴力市髑髏ヶ丘にある三途川の河川敷で、女性の骸が発見された。この死体がちゃんとしていれば、こうしておれが大変な思いをすることもありえなかったのだ。女性の遺体は無惨にもバラバラにされていて、手首や肘や肩、首、腰や膝や足首と、主要な関節毎に切り分けられていた。断面の肉は変色し不器用に潰れていて、おそらくトンカチのようなもので執拗に叩き、骨が砕け筋やら健が切れ、肉だけのペラペラになったところを無理くり引き千切ったのだろう。メチャクチャだ。犯人は頭がおかしい。通常バラバラ死体というと、切断した各部位をバレぬよう分散させて投棄し、我々警察に面倒な仕事を寄越すものだが、今回の犯人はそんなことはどうでもよかったようで、バラバラになった死体の各部が、左の手首以外すべて同じ場所に雑然と転がっていたのだ。この左手首の居場所を探して、なんの罪もないおれが草むらを彷徨い、汗水を垂らしているというわけである。許せぬ。犯人に如何なる深慮があろうとも、どうせそれは常人には到底分かり得ぬ深慮であって、まず犯人は正気でないと断言しよう。しかし、死体がバラバラなだけで、散らばっていなかったおかげで、女性の身元はすぐに割れた。これは助かった。被害者は、鬼殺県に生まれ、鬼殺県で育った、四千九百八十九歳の女性で、四千九百八十九年間、一度も県外で生活をした履歴がなく、現在四千九百五十年前に病死した両親の持ち家に住んでいたそうだ。いやに鬼殺県に土着した恐ろしく長生きの女性だが、それにしては、容貌若く、シミやシワやたるみなどは見られぬ。一見、二十代後半くらいに思える小綺麗な姿である。わけが分からん。ヴァンパイアだろうか。この容姿だとまだ現役で通用しそうであるが、やはり閉経の方はしっかりしているのだろうか。面白そうだから、後日警察の職権を濫用して個人的に調べてみるとする。女性は暴力市内の会社で事務をしており、業務には至って真面目に取り組み、上司からは信頼されていたようである。同僚との交際に於いては、そのバケモノじみた年齢も隠し立てせず、むしろ冗談の種などに使っていたようで、社内の半分には「妖怪女」と大人気、もう半分には「妖怪女」と甚だしく不気味に思われていたようだ。しかし、私生活は一切の謎で、分かっていることといえば、未婚であり、子供もいないということだけだ。やっぱし、閉経してるのかな。解剖医にチェックしてもらおう。親戚は元々おらず、祖父母はとっくの昔に父方母方共亡くなっている。両親が死んで関係のある血縁者は途絶えてしまったようで、以来、孤独に生きていたようだ。噂によると、四千九百八十九年の裡に名前が三回変わっているらしいが、いかんせん昔のことだから、履歴が残っている筈もなく、前の名は分からない。現在の名は痛本左代子と言い、およそ百年前から使っているらしい。やけに引っかかる。今回の事件に合いすぎている。痛本はそのまま殺害の際の打撃による痛みを表している風に思えるし、左代子となると、これは紛失した左手首のこととしか思えぬ。それに四千九百八十九年という、阿呆みたいな年齢も、四九八九、四苦八苦と、妙な符牒のような気がしてくる。これは案外、根が深い事件なのかもしれぬ。気を引き締め直さねばならん。女性の直接的な死因は、おそらくクラゲ毒だと思われる。なにかしらの方法でクラゲ毒に充てられて、妖怪女といえど、相応の症状が出たのだ、きっと。状態にはなにも表れていない、が、多分、そうだ。分かるのだ。言ってみれば、刑事の勘というか、そんな感じ。最前、バラバラの遺体を眼前にしたとき、おれは中華料理を食べた後だった。野菜炒めにキクラゲが入っていたような気もする。だからクラゲ毒。どうかね、この推理。刑事なめちゃいかんぜよ。クラゲは海で生活しているものだから、おれはバラバラ遺体の一番大きな胴体の部分を拾って、鼻を効かせてみたが、なんか、倒錯的な興奮があって、嗅覚がほとんど機能してなかったから、海の匂いは分からなかった。足首とかにしとけば、嗅覚がおかしくならんで済んだかもしれぬ。後で試してみること。
最初に「バラバラの、遺体? のようなものを見つけたんですけど。」という電話を受けたのは、なにを隠そうこのおれなのだ。えっへん。おれは遂に大事件に直面したやもしれん、もしかしたら手柄を立てられるかも? という、高揚する気持を必死で抑えながらだったから、「本当かね。ウソだったら困るよ。今、中華食べてる途中だから、あんまり変なことは言わないでもらいたい。」と、やけに横柄且つ私的な返事をしてしまったのだが、彼は気に留めない様子で「本当です。暴力市髑髏ヶ丘の河川敷です。等活橋がある近くの草むらです。」と手早く情報を伝えてくれたので、おれはすっかり信頼して、「分かりました。ありがとう。すぐに向かうから、あなたもそこで待っていてください。気味がわるいだろうけど、辛抱してね。一応、名前だけ伺っていいかな?」と訊ねたのだ。すると彼は、「はい、分かりました。死体は慣れっこなんで平気です。」という、曰くありげなこと言ってから「バラ山・ハンマー・狂太郎です。」と名乗ったのだ。あの時はバラバラ殺人事件を前にして気が急いていたし、なにやら、お祭りのような感じもして楽しかったので、なんとも思わなかったのだが、いま考えると非常に怪しい。これまた名前が事件に見合いすぎている。見合いすぎて、ミドルネームが入っている始末だ。バラとはバラバラを指していて、ハンマーとは切断に使った道具のことだろう。狂太郎は、気違いを表している名前だと思われるし、そもそも早朝に等活橋の近くの草むらでなにをしていたんだ。遺棄ではないか。遺棄を終えてすぐに通報してきたのではあるまいか。太々しい。なんて肝の据わった男だ。こういう肝の据わり方は気違い特有のものである。死体に慣れっこというのも、死体一般のことではなく、つまり医師やら葬儀屋などではあらず、殺害・切断を行ったからこの女性の死体にはもう慣れているという意味かもしれぬ。いや、これは、少し邪推が過ぎている。バイアスがかかったこじつけ推理はよろしくない。刑事の掟である。

手柄を渡すのは口惜しいので、食ってた中華を途中で止して、上司や同僚には告げず署から抜け出し、等活橋まで車をすっ飛ばした。時速二百キロだったそうだったので、一回パトロール中の同僚に止められた。この件は、後に始末書を書くこととなるだろう。等活橋に着き車から降りて、例の草むらを探して左見右見していると、橋の下から「刑事さーん。」と電話で聞いた声。手摺に凭れて見下ろすと丸坊主の若い男が手を振っていた。人死にが出ているのに不謹慎なやつだと思いながら、土手を下っていたら、足がもつれて平衡を失い、土手から転がり落ちてしまった。恥ずかしい。「刑事さん、転がるの早いなあ。」と駆け寄ってきた若者は言い、「どうも、先ほど通報させて頂いた、バラ山・ハンマー・狂太郎です。」と気持のわるい名前を当然のように名乗った。この男、虎刈りの坊主で、目の焦点が合っていない。なにより左手が二つあったのが気になった。腕は一本なのだが。手首から二つの手が生えている。不気味だ。「ああ、通報をどうも。死体、どれ?」「あれです。」「暗くてよく見えないや。」「そろそろ陽が出ますよ。」「じゃあ、それまで、一服しようや。」「僕、タバコきらいなんです。」「そうか、おれ、あっちで吸ってくるから、君、ここで待ってて。」「分かりました。その間、死体触っててもいいですか。」「だめだよ、バカ。」土手に上がってタバコを吸っていたら、凄まじいスピードで陽が昇った。長らく日の出など見てなかったから、早く思っただけかもしれぬ。急いでハンマー君の元へ戻って、愕然。えぐすぎる。死体の状態は先述した通り、知らずに見たら驚くよ。「えぐいね。」「そうですか? そこまでじゃないと思うけど。」「えぐいよ、これ。中華もどしそうだよ。」「さすがに、中華もどすほどじゃないでしょう。」「人それぞれだろ。」と、ハンマー君とは初対面なのだが、うまいこと会話が進んだ。「僕、刑事さんがタバコ吸ってる間、ずっと見てたんですけど、左手首だけないですね。」「それ以外は全部あるの?」「ありますね。」「バラバラにした意味ないじゃないか。なんだ、気味のわるい。」「ありゃ、本当ですね。」「ところで、君の左手、なに?」「ああ、僕、奇形なんです。ほら。」と、両方の左手を握って、開いた。おえ。そこでおれは、署の連中に連絡を入れ、応援を願った。連中が来るまでに土手でもう一本タバコを吸った。ハンマー君バラバラの遺体の横で、暇そうに石を蹴っていた。
同僚や鑑識が来て、上司が指揮をとった。おれはハンマー君と行動したかったので、上司にバレぬようにその場を離れ、二人で草むらの奥で手首を探すことにした。

「見つからないですねえ。どこにあるんだろ。面倒なことしたなあ、まったく。左手首なんて、すぐ見つかりそうなもんだけどなあ。どうです、刑事さん。前にもこんなことあったりしましたか。」
「うるさい。今はまだ導入部なのだ。後で紹介するから、なるべく大人しくしていろ。しかし、おれもこんなのは初めてだよ。」

ここで時系列が冒頭に戻るのだが、今のおれは冒頭のおれではない。つまり、これまでおれが抱いた事件への不審やハンマー君への疑念は、今、一気に去来したのだ。ハンマー君が恐ろしくて堪らない。こんな殺人鬼とよくも二人きりになれたものだ。無知は危険だ。そもそも、なんだ、奇形って。そんな、ウソ、この野郎。こいつ、絶対、切断した左手首と、自分の神経繋げたろ。頭おかしい。怖すぎる。「僕、怖いですか?」怖いよ。なんだよ。セリフ以外に返事するなよ。どういう理屈だよ。テレパスなのか? 手に負えない。「ははは。カマトトぶっちゃって。」笑うな。なんだこいつ。カマトトってなんだ。気違いの相手は御免だよ。「誰が気違いなんですか。あー、殺そっかなあ、どうしよっかなあ。」脅し方怖すぎるだろ。そもそもなんだよ、鬼殺県暴力市髑髏ヶ丘にある三途川とか、等活橋とか、痛本左代子とか、四千八百四十九歳とか、バラ山・ハンマー・狂太郎とか、不吉すぎるだろ。もしかして、この事件は、起こるべくして起こっているのか。この事件のために、街が作られているのか。実際に、こんな街はないのか。おい。気が狂いそうだ。「あ、そういえば、痛本左代子の死因はクラゲ毒じゃないよ。というか、そもそも死んでないんだよ。生きてもないし。いない人だから。死因なんか、ないんだよ。」よく分かんねえよ、もう。そんなの。やめてくれ。おかしくなる。「僕もいないし、刑事さんもいない。だから、痛本左代子を調べるのも嗅ぐのもしなくていいし、始末書なんて書かなくてもいい。刑事さんの同僚も鑑識もいない。いるのは、ハエ・蚊・蜂・バッタ・トンボ・カマキリだけ。あの頃はまだ、普遍的な街だったからね。一、三、五、七段落は、現実なんだけどね。最初なんて、ほら、僕たちのセリフがなければ、ちょっとしたエッセイだもの。」段落とかセリフとかエッセイとか、わけの分からんこと言うな。知るか。おれは生きてるぞ。体もあるし、これまでの人生もあったんだ。創作県小説市で生まれた、主人公原刑事郎だ。れっきとした人生があるのだ。適当なウソつくな。おれは生きてるぞ。「どうだろねえ。」だから生きてるんだってば。頼むよ。

分かる映画

音楽は本能のもので、文学は理性のものであるというのがおれの持論である。そのふたつ以外にも芸術はあるわけだが、生憎おれは絵や演劇や詩などがあまり分からないから、銘々の位置も知れない。いつか分かるようになれば重畳であるというような頼りない心持ちで、自ら分かるまで触れてみようという気はどうも起こらない。無論、分からないとはいえ、衝撃を受けるような作品に出会ったことはあるが、しかし、作者にまで関心がいかぬから、分かったとは軽はずみに言えんのですよ。おれは馬鹿だが恥知らずではないつもりです。ここで、分かるも分からないも面白いも面白くないもあやふやな芸術が登場する。少しもったいぶったような言い方をしたが、わざわざ焦らす要もないし華々しい演出なんかを用意してやるのも癪なのであっさり言ってしまうとして、その芸術の正体は、まあ、Bang! 映画である。驚いた? ピストルを撃ってみました。映画は明確な総合芸術であるから、構図や劇伴、人物の言動など、ひとつひとつの要素にあらゆる芸術の文法を捩じ込むことができる。野蛮ですねえ。しかし、そうした芸術のごった煮は、快・不快のどちらにも作用しうる。処方のやり方如何、患者如何によって、毒にも薬にもなりうる劇薬的な性格を持っているのだ。大体二時間前後、抜かりなく作り上げねばならんわけです。そればかりか、人間の役に生身の人間を使わねばならんのだから、大変だ。役者がうまい具合に底上げしている場合もあるけれど、まあ、肉体肉声でやっているわけだから、合切意のままともいかんだろう。映画は芸術の難関であると思える。映画が皆んなこの難関をくぐり抜けているとは言いがたい。というか、まあ、ほとんどが難関の渦中であたふたしている。映画にも大衆向けとそうでないものがあるのだろうが、文学に比べてその差はあいまいだと感じる。安部公房が1958年頃に「いわゆる中間小説は、とうてい芸術論の対象になどなりえないが、映画はこうした娯楽作品でさえ、けっこう芸術論の課題たりうる。」と言っていたが、今日の映画はこの性質を保ちつつ、更に枝分かれしているように思う。確かに当時よりは、はるかに映画は芸術として認められている。むしろ文学などは下火も下火、幽霊としてなんとか生き長らえているような始末で、映画の方がよっぽど芸術として評価されている印象だ。映画館も増えて、イオンシネマなんてものもあり、毎年話題作が現れ、社会現象とまで呼ばれたりする。だが、発達というのは、一方で粗製濫造という災いの種でもあるのだ。つまり、大衆への認知の当然の結果として凡作愚作が鼠算式に増え、より卑近になったわけです。元々映画は観念的ではありづらい。観客が想像するまでもなく、人間は人間として、動きは動きとして、風景は風景として、見せなくちゃ成立しないものだから。どんなに深遠な哲学を語っていても、その主人公は顔と声を持った人間であるし、背景にはなんてことないつまらぬ建物がある。内容にともなった誇張が許されぬ。映画はちぐはぐな芸術であるのだ。このちぐはぐがあやふやの印象の親である。一見陳腐だが、主人公とっては甚大な出来事は、その一見の陳腐さに飲み込まれることが多々ある。無理にこじつけもできようが、しかしその一見陳腐であるという印象は中々拭えないものだ。たとえば、その出来事をやけに乱れたカメラで撮り、そこに派手なCGを加えて、主人公の心情をナレーションを乗っけてみれば、甚大の加減は表現できるかもしれぬが、それではなんか、よく分からなくなってしまう。映画はちぐはぐであやふやなさりげない芸術であるというのがおれの感想である。アクションが過ぎるアクション映画は例外としてね。と、まあ、年間百本見るか見ないかのおれが映画のあり方についてくどくど喋々していても仕様がないので、そろそろ本題に入るが、以上の理由で、映画は分からないものがほとんどだ。物語は追えても、ちぐはぐでどうしたらいいのか判然としない。しかし、中には分かるものもある。監督や脚本家の意図を十全解説できるというわけでもないが、とにかく分かるものがある。今回は特に分かる五本を紹介しようと思う。順不同ですよ。それと、文中で物語の顚末を大胆に明かしていくかも分かりませんので、注意を怠らないでください。おれはいつでもやっちまう構えである。いやはや。ヘビと前置き、長すぎる。

 

ストップ・メイキング・センス 1984

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今朝訃報が知らされたジョナサン・デミ監督による、ニューヨーク・パンクのバケモノ Talking Headsのライブ映画です。ライブ映画なので、無論話の筋も登場人物もありません。それだから最前から言っている、ちぐはぐやあやふやの心配はないのです。はなから斯様な安全牌に走ったせいで、情けないキツネに呼ばわりされてしまうかもしれんが、まあ、そういう映画はこれだけだから、堪忍してください。

上の画像より、デヴィッド・バーンが大きすぎるスーツを着て踊っている写真が有名ですが、このジャケットの方が、おれは、ファニー・ゲームみたいで好きなんですよ。ファニー・ゲーム自体はそこまでであるけど。

ストップ・メイキング・センスは、上映時間の約90分間、インタビューやドキュメンタリーなどは一切なく、ただひたすらTalking Headsと仲間の黒人5人が演奏して、歌って、踊りまくるだけの好ましい映画であります🐸 活力の他にはなにもない映像と共に、複雑なアフロビートの楽曲を90分間聴いてごらんなさい。おかしくなりますよ。Speaking In Tonguesが出た後に行われたツアーなので、とんでもアルバム Remain In Lightの曲もたくさん演奏される。オリジナルメンバー以外を全員黒人で固めていることからも瞭然であるが、この頃のTalking Headsは完全に頭がおかしい。薬物をやっていないと、説明がつかない。荒々しいアフロビートと裏腹に、舞台に徹底された美意識、デヴィッド・バーン神経症じみた歌声、ティナ・ウェイマスの前進も後退もしない歩行のような変な動き、とんでもない腕前のサポートの黒人がいるからあまりギターを弾かせてもらっていないジェリー・ハリソンの不憫な苦笑い、デヴィッド・バーンがビッグスーツを着るまでの繋ぎで発揮されるクリス・フランツの空元気……Stop Making Sense! タイトル通り、この映画には意味がひとつもない。この場に人間関係なんて存在しない。演者も観客もない、単純なひとつの行動なのだ。Stop Making Sense! デヴィッド・バーンが歌う詩には意味があるのだろうが、デヴィッド・バーンもそんなものは毫も意識していないだろう。歌は詩に先立つ。Stop Making Sense! この映画はどんな思想とも結びつけられぬ。一個の完成した無意味である。一個の完成した芸術である。

 

 

ほえる犬は噛まない 2000

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殺人の追憶母なる証明で有名なポン・ジュノの長編デビュー作、且つ最も変テコな映画である。物語はあってないようなものだ。説明しろと言われても困ってしまうが、努力します。おれはひとりで会話をすることがある。ある団地で飼犬が連続で失踪し、その犯人と犯人を追う事務員の女の、うだつの上がらぬ毎日の話。これだけ。この犯人が主人公なのだが、犯人といっても、顔に傷跡のある髭面の極悪人というわけではなく、ただの益体もない普通の面構えの男であり、面構えのみならず内面も相当なもので、漫然と日々を過ごし、お偉いさんへの賄賂を工面できず中々大学の教授になれぬ男、心神喪失の気違いや、倒錯した卑劣漢であれば、まだ彼も救いがあるのだが(ヒーローに殺されれば済むので)、懶惰な生活に鬱屈しつつも、正気から抜け出せぬ人間だ。犬を絞めたり、高所から放ってしまうのも、それは、犬への愛情が他より稀薄なだけで、大いに限界に近づいてはいても、完全にいかれているわけではないのだ。可愛げの塊、ペ・ドゥナ演じる団地の管理事務所の経理の女も似たようなものだ。彼女には、男と違って養うべき家族がおらんので、いくらでもダラダラと世間を日和見していればよいのだが、彼女は名誉を求むる欲求が旺盛で、強盗を撃退した銀行事務員のニュースに心底感心していて、歌手や女優などより、殊勝な銀行事務員に本気で憧れている。又、友達と破壊した他人の車のサイドミラーを、宝物みたいに抱えて電車に乗るような馬鹿だ。この両者からルサンチマンは感じない。ただなんとなく飽き足りないだけだ。嫉妬など暇潰しの役には立たないですよ。

事件は全て団地内で起こり、団地内で展開される。ペ・ドゥナが犯人を発見し、追い又追われる二度の追走劇は、階段と廊下を行き来するだけで、車もアクロバットなアクションもない。後藤明生の小説の如く、物語が団地からほとんど外に出ない。

斯様な鬱屈・退屈の日常への意趣返しや、焦燥からの奮起などには物語は進まず、要るのか要らんのかよく分からんような挿話がありつつ、緩慢な時間の流動のある地点で終わる。男は妻の退職金を賄賂にあてて大学の教授になり、女は犬の問題にかかずらってばかりいるので団地の経理を馘首される。完結のない話だ。そもそも問題がないから道理である。しかし、ともかくふたりとも団地からは解放された。後々どうなるかは知れぬが、とりあえずは黄色いパーカーやカッパは着ない。晴れ晴れとはしないし、名声欲は満たされえぬが、無味無臭の団地からは脱出したのだ。

おれはここから哲学や問いかけを受け取らない。共感もしない。思想のない芸術は、性欲を噯にも出さない友人のようで、付き合いやすい。こういった芸術とは、色情や共感と関わりのないところで、ふざけて遊ぶだけだ。

こう書くと現実味があるばかりで面白味に欠ける凡百の映画と思われるだろうが、まあ、とにかく、観てください。実際、映画的なことはほとんど起こらない。ピストルもやくざも出てこない。不思議な死体も現れない。重量のない文学のような映画ですが、しかし、妙ちくりんなユーモアが遍在する気っ風のいい映画ですよ。

 

 

デス・プルーフ in グラインドハウス 2007
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人気の馬鹿、クエンティン・タランティーノの監督作品であり、これも又、筋もへちまもないとんでも映画である。これは、昔、タランティーノが若い頃、アメリカのピンク映画や粗雑なアクション映画を主として上映していたグラインドハウスという形態の映画館があって、そこでかかる映画の乱暴さ猥雑さに感銘を受け、そのグラインドハウス自体を丸々再現しようと試みた作品であるらしいが、そんなものはほとんど関係なく、単純に奇矯千万な作品であって、なんとなれば、上映時間の半分以上は彼氏とどうしただのあの頃はああだっただのの空疎で悶々とした女同士の会話で、もう半分はカーチェイスというふざけた構成だからである。

スタントマン・マイクという事故殺人に性的興奮を感じる気違いが、舳先にアヒルの飾りがついていて、ボンネットにばかに大きいドクロの塗装を施した、非常に悪趣味な車で、いずれも自らの肉体に浮かれた女共が運転している車を追走し衝突して、女共を散り散りにして殺害する。当然自らも気息奄々の大怪我を負ってはいるが、興奮しているからそんなことは問題外なのであろう。映画の中盤、このスタントマン・マイクと名乗る気違いが、事故後に入院している場面が傑作で、スタントマン・マイク自身は治療され意識を失っている状態であるから、奥の方で機材に囲まれて眠っているだけなのであるが、事件の匂いを嗅ぎつけたホオジロザメの如き警官の番が手帳を眺めながら、「かかる事故は、事故に見せかけた殺人であーる! このマイクという男は、交通事故を性的に愛してやまぬ異常者であり、今後も注意せねばならぬのであーる! 本官も少々探ってみようと思ーう!」と、やけに親切に事件の構造を語ってくれ、やがてスタントマン・マイクの最大の敵となるであろうことを示唆されるのだが、以後、作中でこの警官ふたりは一切顔を表さぬ。ただ、観客への理解の手助けをしただけなのだ。映画のことを教えてくれて、ありがとうございます。

グラインドハウスと呼ばれる映画館は、環境劣悪この上なく、フィルムが汚れ、使い物にならなくなっても、上手とは言えぬ糊塗をして、上映を続けていたらしく、だめになったフィルムを取り除き無理くり繋ぎ合わせて、映像が不器用に飛び飛びになっていたり、変色していたりすることが多々あったと言うが、この映画はわざわざそういったところまで再現していて、斯様な馬鹿げた苦心惨憺はとても好ましく思う。途中、突然画面が白黒になり、しばらくそのまま物語が進んで、あるひとりの女が自販機で購った飲み物が落下する音を契機にまたカラーに戻るのだが、別に白黒も映画的な効果をあげているわけでもなければ、カラーに戻ったときも、アッ戻ったという少々のビックリ以上の感動はないのだ。ナンセンス千万。素晴らしい。

なんといっても、この映画はラストシーンが最高なのであります🐸 全快したスタントマン・マイクが二度目の襲撃を起こすのだが、相手が存外逞しい強かな女性連中であった為に、あえなく失敗してしまう。肩口を撃たれ、腕を骨折し、悲惨極まりない状態のスタントマン・マイクは、無慈悲な女たちに車から引き摺り出され、一人ひとりにとにかく殴られる。各々の打擲の音とスタントマン・マイクの情けない喘ぎ声が合わさって非常に小気味いいリズムが続き、限界を迎えたスタントマン・マイクが転倒したと同時に、ババーンという音がなり馬鹿でかいENDの文字が出る。それだけでも満足なのだが、その後にApril Marchという阿呆みたいな声の女が歌うChick Habitという阿呆みたいな曲が流れて映画が終わるのだ。あまりのことに笑うより手立てがない。この映画には教訓も物語もない。ただ骨子だけがあり、その隙間は意味のない会話とカーチェイスで埋められている。最後に女性側が勝つから、フェミニズム的な見方をしている人がたまにいるが、だとしたら女性同士の会話をいたずらに長く、又滑稽に描きすぎているので、少し無理があるだろう。圧倒的なナンセンスの応酬に、こじつけのひとつも能わない。おれもこの映画を観た後は、考えることが馬鹿らしくて仕方なかった。

他のタランティーノの作品だと、フォー・ルームスというオムニバス映画の監督作も同様に、骨子ばかりがあるナンセンスな映画であった。タランティーノの作品だけ観ても構わないが、それ以前の三本もしっかり観ておくと、ナンセンスへの耐性がナンセンスに打ち克つ、という構図がハッキリしてきて、カンゲキしますよ。

 

 

カンゾー先生 1998

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カンゾー先生は、坂口安吾の「肝臓先生」「行雲流水」「堕落論」などを下敷きに作られた、今村昌平の映画である。これは、ようやく筋があるのだが、時折物語を破って登場人物の感情が甚だしき飛躍をするときがあり、これが実に坂口安吾らしい飛躍で、好ましいです。ここから、おれの坂口安吾に対する思いを披瀝してしまうのも手であるが、まあそれは、また別の機会にします。

ともかく、カンゾー先生には筋はあるのだが、おれはこの話の筋にカンドーしたわけではないから、省略します。どうもメンドーでなあ。こう、省略を続けて空文ばかりが溢れると、この映画自体が軽視されてしまうおそれがありますので、そろそろ美点について話しますが、まず、セリフが素晴らしいのですよ。苦心惨憺の末に獲得した肝臓のバクテリアを、努々思わぬ僥倖で獲得した顕微鏡でもって半日に及ぶ観察を続けているカンゾー先生に、看護婦の麻生久美子が飯を持ってきながら言う「先生は変わっとるなあ。飯も食わんとバクテリ見とるんか」という間抜けなセリフが、麻生久美子の声の調子と相まって、輪をかけて間抜けに聞こえる場面があるのだが、おれは既に、あの場面だけで満点をあげてしまっている。だからもう言うことはない。面目無い。しかし、その他にも変なユーモアが突如顔を表すので、見て損はなし。ラストシーンも、麻生久美子が不意に妙な気を起こして鯨をひっ捕らえようと海に飛び込み、結句失敗し、遠くで原爆が投下され、キノコ雲が肝臓の形に似ているとカンゾー先生が思うという、もはや間抜けでは片づけられない飛躍をしているので、助かりますヨ。今村昌平はこういうところが信頼できますねえ。あ、信頼できるのであります🐸

 

 

ルパン三世 ルパンVS複製人間 1978

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これは、言うまでもなく、劇場版ルパン三世シリーズの一作目の映画であるが、一作目にして最高傑作ができてしまっている。しかし、カリオストロの城の人気に追いやられて、「ああ、金曜ロードショーでよくやってますねえ」で片付けられてしまう作品でもあるのだ。カリオストロの城がなんぼのもんじゃい、宮崎駿がなんだ、あんなもん、真っ白けじゃないか。と、啖呵を切ってみたが、おれはカリオストロの城カリオストロの城で、まあ好きですよ。今更あらすじなんか説明するような映画ではないと思うので、そこらへんはWikipediaに任せるとして、いきなりオチの話をしてしまおう。マモーは複製人間である。爺みたいな口調とは裏腹に幼児よろしく矮小な身体をしていて、しかし顔は口調に適ったしわくちゃで、又、薄紫色である(これは爺とか、そういうのじゃないけど)。不二子を拐かす上に、なにやらおぞましいクローンの研究をして、地球をひっくり返そうとしてやがるので、ルパンも黙っていられず、マモーに手をかける。ところが、中々死なぬ。タフだからではなく、単にマモー自体が複製人間で、大勢いるからだ。クローンの研究の賜物である。さてそれで、マモーの実体、マモーのオリジナルはなにかというと、これが全然理解できないのだが、巨大な脳みそなのである。最終的にマモー(馬鹿でかい脳みそ)は、全体をガラスかなんかで覆い、ロケットで宇宙に向かう。わざわざ宇宙へ行く理由は忘れてしまったが、どんな理由であれ、これは頓挫する。なんとなれば、ルパンが飛び立つ前に時限爆弾を仕掛けておいたからだ。脳みそ相手に酷なことをする。それに気がつかぬマモー(Big Brain)は、大気圏を抜けロケットを切り離して、しばらく悠々と宇宙をたゆたうのだが、やがて太陽だか月だかの天体の前で爆発・分裂・四散する。デブリがすごいことですよ、人間は罪だねえ。まあ、いずれ八郎太たちが掃除するからいいのかもしれぬ(このように、ルパンとプラネテスの世界が繋がっていると思ってる人がいたら、恐ろしいぜ)。ともかく、これはカメラで撮った映画ではありえない映画だ。巨大な脳みそはCGを使えば作れるかも分からぬが、少し空々しいだろう。まあ絵だからという建前で、メチャクチャやっている。こちらもアニメと承知で観ているから、特に空々しくは感ぜぬ。脳みその描写以外にも、アニメでしか出来えぬやり方で、アニメでしか出来えぬシーンを作っている。アニメという手法をとことんまで突き詰めた大作。その心意気、恰好いいじゃないの。おれは、恰好いいものが好きなんだ。

この映画は吉川惣司という人が監督しているらしいが、アニメに於いて監督がどういう仕事をしてるか分からぬので、これといって調べてない。ごめんなさい。ともあれ、これで終わりであります🐸 一貫しているのか、していないのか。どうだろね。

銭ゲバ大家、無情に非ず

 

アアラ、酷いねえ。アンタ、こりゃ酷いよ。まったく参っちゃうわよねえ、ここまでされちゃうと、サスガにねえ。たしかに入居するときに「好きに生活して構わないからね」と言ったのはワタシだけどねえ、限度ってもんがあるでしょう。ほら、壁もなんなのアレ。なんて書いてあるの。ワタシには「臓器ありがとう」って書いてあるように見えるんだけど、まさか「臓器ありがとう」だなんてねえ。ワタシだってもうすっかり老眼になっちまってるから、見間違いだとは思うけどねえ。ア、やっぱり「臓器ありがとう」って書いてあるのね。あんだけ大きく書かれてたら、いくら老眼とはいえど見えるもんだねえ。まあ臓器がありがたい気持ちはワタシにも分からなくもないけどねえ。ワタシだってほら、もう若くないから毎日のように病院行くようになっちゃったんだけどね、いろんな臓器悪くして分かるのよ。人間、臓器なくちゃやってけないってねえ。しかしねえ、借家の壁に書くもの? え? 鉛筆で書いたの? アンタ、鉛筆とはいえねえ、あれじゃあしっかり跡は残っちゃうでしょう。たとえうっすらであったとしても、「臓器ありがとう」って書いてあったと知られちゃマズいのよねえ。世間体ってものがあるでしょう。ちょっとアンタ、ミルクティー飲んでんじゃないわよ。人が文句つけてるんだから。ところでアンタ、床に無数の穴ぼこが明いてるのはアンタがやったわけ? そうよねえ、前ここに住んでらした方は床使わない人だったから、床に穴ぼこが明く筈がないのよねえ。しかも無数にねえ。アンタ、フローリングだってタダじゃないのよ、分かる? 分かるわよねえ、アンタだって立派な大人だものねえ。この穴ぼこの深さはどれくらいなの? それによって埋めるか、張り替えるかが変わってくるのよねえ。はやいとこ教えてくれないと。とことん深い? とことん? そうねえ、まいったわねえ。とことん深くちゃ、埋めた方がかえって費用がかかっちゃうかも知れないねえ。ウーン、一体どうしてなの? どういうわけがあって、借家の床をとことんまで掘っちゃったわけ? しかも無数にさあ。「モグラがちょっと……」ったってねえ。モグラのせいにするんじゃないわよ。そもそもアンタ、ここ動物の飼育は許してないんだよねえ。はじめに言わなかったっけねえ。そうよねえ、言ったわよねえ。「飼っていたのと違う」ってアンタ、嘘はよくないわよ。つまりじゃあなに、モグラが闖入してきて勝手に気が済むまで掘っていったってことなの? 床を? 外でもできることなのに? 違うわよねえ、おかしいものねえ。いや、「モグラが趣味でして……」って、そりゃアンタ、つまりは飼ってたってことでしょう? 駄目よ、言い逃れは。潔くないもの。男は潔くなくっちゃ。ワタシは潔い男が好き。それじゃあ、壁も床もアンタの勝手でこんなにしたってことでいいわね? そう。もうこの調子じゃあ、ふたつとも新調しなくちゃだから、お引越しするなら四兆万、ちゃんと耳揃えてワタシのところに持っておいで。そうでなくちゃ、棍棒でハチャメチャにしてやるんだから。痛いわよ、棍棒。無骨そのものなんだから。まったくもう。なにかにおうわね。そのミルクティー腐ってるんじゃないの。美味しいったって、アンタ。飲むのやめなさい。おなか壊しちゃってもいいわけ?

【短評】都市の駅

 

都市の駅はすり抜けるものだ。電車の乗降や、排泄や、仕事や、食事や、買い物をするところではない。ゴムの脳みそにウロウロ動かされている馬鹿や、鉛の如き体を引き摺る女や、油切れのブリキの老人や、往来の中心で立ち止まって手を振り振りサヨナラをするいかれた連中の間隙を必死で睨みつけて猫か蝿か突風に変身してすり抜けるところだ。別段急いてなくとも一定の速度を保って隙間を発見し左右しながら進むものである。その為、前方が突然大便のように詰まり、右にも左にも入り込む余地がない場合、速度を緩めることが能わず、他者の踵を巻き込むことになるが、その際にはおれは猫や蝿や突風から芝刈り機に形を変えることとなる。都市の駅ではともすると芝刈り機になってしまうおそれがあるので十分な注意が必要である。朝夕は芝刈り機への変身が増えて、おれはどうも心が擦れてしまうから、昼下がりや夜更け前を選んで改札に入るのだが、これは駅の利用が移動ではなくすり抜けることであるという、なによりの証左であろう。少なくとも、おれにとってはそうであり、渋谷駅で友人と待ち合わせをするときなどは、ハチ公へ向かっている間に、人々のホウ酸団子の渦に巻き込まれて正気を失い、待ち合わせのことはすっかり打ち忘れ、すり抜けることに躍起になってしまって、気がつくと待ち合わせの時刻に遅れるばかりか、終電すらも無くなっているということがしばしばである。別にすり抜けることがおれの至上の楽しみであるわけではないが、貧乏根性というか、せっかく都市の駅に来たのだから存分にすり抜けてやろうという悪心が我が頭を汚染して、ハイヒールの女とヨイヨイの老人や、口を開けて中天を覗くガキと笑っている若いつんぼの男や、ノロノロ転がる大きなゴム毬と昼食中のカマキリや、豚の番いの空隙を見つけ、するりと一陣の風となりて吹き抜ける度に、神から加点をされているような気分になる。正気に戻ってから思い返すと、天上で厳かに鎮座する神が人混みの中を必死の面魂でくぐり抜ける小男を見て、一点なり三点なり五点なりの札をあげるわけがありゃせんことは明白なのであるが、どうも、ひとたび駅に入ると、そうした勝ち敗けの世界であるように思えるのだ。

これまで都市の駅について、殊に都市の駅に於けるすり抜けについて述べてきた。すり抜けの勝負という立場から都市の駅を見ると、実に蠱惑的である。

しかし、都市の駅を評するにあたって、斯様な独善的な判断は禁物である。評価というのは公平でなくてはならん。然して、文学・音楽・映画・絵画・科学・化学・動物学・数学・語学などの、様々な観点から都市の駅を鑑みると、いずれの場合にもなにやら灰色がかった詮無いものとしてしか映らぬのである。従って、都市の駅は百点満点中、せいぜい十点くらいが適当であろう。この十という数字は、とはいえ都市の駅は移動に便利であるから、という個人的な同情の念を含めて割り出した数字である。

強烈なるフライングV

 

 

水曜の昼下がり、おれは尋常の通り出勤をした。おれ自身は尋常の通りであったのだが、ひとつ尋常でないことがあった。二階の事務所内を、一匹のトンボがパトカーの如き激しさで危険を訴えながら、白バイの如き鋭さでアチコチ飛び回っていたのだ。コンピューターと電話と紙面にかかり切りで、事務所に巣食う半魚人共はてんで気づいておらず、パッチリ二重のおれだけがトンボの軌道を追っていた。「今日はだめだぜ」「大安の水曜日は魔女の曜日よ」「魔女って、糞と豚の合いの子なのよ」「とんでもねえぜ! トンボでもねえぜ、ってな、ワハ」「狂ったチワワもいつもより来ることだしよ」「いやだわ」 おれには昆虫の雌雄が分からぬので、どちらでも対応できるように、言葉遣いをしっちゃかめっちゃかにしてあるが、ともかく、おれはトンボの言語を解するから、トンボの言うことならばなんでも聞き取れるのだ。これまで様々なトンボの声を聞いたが、大安の水曜が魔女の日であるとは知らなかった。最近できたばかりの決まりなのだろうか。しゃれている。蓋し、人間の間では流行らぬ考えだろう。中世であれば望みはあったかも分からぬが、我々現代人からすると、魔女というのは、あまりピンとこない。トンボの規則がトンボにしか通用しないように、最前のトンボの警告も、どうせトンボにしか通用せんであろうと思い、おれはさして気にせず階下の広間に向かった。映画館のアルバイトは楽々だ。とはいえ、やはり都心の映画館であればそうはいかぬだろう。なんとなれば、都心だから。然らば、地方へ行けば行くほど楽チンなのか、と思うやもしれんが、地方は地方で、そもそもの映画館の数が少ないから、カッペが雲集して大変らしいよ。おれは東京の都心からちょっと外れたシネコンが一等空いてると見ている。現に我が職場は、年の半分は閑古鳥が爆笑しているし、アルバイト同士は閑談をしている。
この大安の水曜日も例の如くであった。入場を待っている客は広間にチラホラ目につくばかりで、入場券を購う人もそのときは三人しかいなかった。数時間前からシャカリキを演じて退屈しきっている早番連中に目礼しつつ、おれは帳面を手にとって、映画の宣伝に関する情報を眺めていた。どうやら上のやつらは、誰が得するのかよく分からぬ新作映画のキャンペーンを行うらしい。あら、そう。人間は皆んな承知していると思うが、キャンペーンというものの正体とは、ちょっとのことでは家内から出てこない吝嗇のミドリガメや、無関心のバッタ、その辺の犬コロに向かって、細かくちぎった金銀をばら撒いて音を立て、どうにか注目を集めんとするお調子者である。必死の佯狂である。やつらは、はなから好事のトリケラトプスを相手にしていないし、無論トリケラトプス自身もそんなものには興味がない。彼らは金銀でなく、新鮮な草が食べたいのである。おれは、草食で襲われる見込みが少なく、又、映画という酔狂を好むトリケラトプスと友達になれば万事解決であると思うのだが、なんか、そうもいかないらしい。人間風情にゃよく分からん話か、などとパンク気取りで考えている折、「なんかー、生理がこないんですよねえ」と、おれの隣に立っていた年増の主婦のスタッフに向かって、ちょうど糞と豚の合いの子のような太った女学生のスタッフが一方的に話していたのが耳に入った。数人とはいえ客が近くにいる状況で、またぐらの話をしてるとは努々信じられなかったので、おれはウサギに変身した。白に灰色の混じったウサギである。「もしかしたら妊娠したかもなんですよねえ。生理が一日遅れてて……」「大丈夫? 最近具合わるかったりするの?」「いや多分、彼氏かなあ。やばい……」 ウサギに変身していたから、いつもより周囲の音がハッキリと聞こえた。おれの頭上で暖房が鳴っている。自動扉が開いて、閉まりかけて、再び開いた。女性用便所では今、六人が用を足していて、男性用便所は二人だ。館内を白蟻が闊歩している。地下ではもぐらがキリンジを歌っている。明日の方向から雨雲が迫ってきている。冬が軋み、春が地図を片手に近づいている。それと、やはりこの馬鹿は自らのまたぐら関係の話をしている! しかも、どこか殊勝げな声色である! この女は、気違いだ! おれは震えていた。いまのおれはウサギだから、多少敏感になってしまっているのかもしれないと、あわてて人間に戻ってみたが、依然震えたままであった。確かにあの気違い女のこれまでの発言や振るまいからは常に莫連の予感があって、おれは、まあ好きではないし気持ちわるいから関わらんでおこうと考えていた。しかし、いままでは震えが起こらなかった。きっとおれは、莫連自体にアレルギーを持っているわけではないのだ。つまり、おれは、気違いとその彼氏との漁色と肉慾の行為を想像して、慄いているのではなく、このとことんまでいかれてしまっている女の「彼氏との交わりが原因で妊娠って、かっちょいいでしょう。憧れるでしょう。アナーキーでロックンロールでしょう。私は強い女性の代表よ。その証拠に、今日はレディースデーじゃないの。1100円なのよ」とでも言いたげな口吻に怯懦していたのだ。それをなぜか子持ちの主婦にひけらかすという、いささか倒錯した手口も、より恐ろしい。いやしかし、こんな独りよがりの偏見で人を気違いだなんて言ってはだめだ…… たとえ、太り過ぎが原因か、年がら年中顔面に原理の分からぬ赤みが差していて、ミシュランマンにそっくりの体型をした女が、自分のまたぐらの話を割合大きな声でしていたとしてもだ!
おれはその後、自らの独善的な管見を恥じ入り、頭の中でトンボに不信の詫びを入れながら、静かに業務をこなして二十二時頃に退勤した。翌日も遅番のシフトが入っていたので、不承不承、電車を乗り継ぎ出勤をした。今日はミシュランの女はいない筈であるし、大したことは起こらないだろうと安心していた。予想通り、泰平無事で余裕があったので、遅番を同じくする男のスタッフと話をしていた。すると、彼が「そういえば、あの、妊娠の話聞いた?」とおれに言ってきたのだ。とりあえず知らんぷりをして、「や、知らないです」と応えたら、「いやね、何某さんがね、アレが遅れたとかで、妊娠したかもって話なんだけど、色んなところで色んな人にしてるらしくて、知ってるかなって」 おれは昨日、変に後手に回ったことを後悔した。あのいかれた莫連女はあらゆるところで自らのまたぐらの話を喋々しているというのだ。やはりあいつは、己の妊娠をロックンロールに於けるギターかフェミニズム躍進の為のカンフル剤かなにかだと思っていやがるのだ。気違いには気違いの理屈があるように、気違いには気違いのロックンロールがあるのだろう。否定はしない。おれには分からぬことだから。けれどもおれは、こういう人間を問答無用で牢屋に閉じ込められるようになりたいから王様になっちゃる。と、そう、決意した。