狂人演説

 

 

人間は考える葦であるという。葦であるわけはいまひとつ思いつかないが、人間は考える葦であるという言葉には、そういうならそうなのであろうと納得してしまうような迫力がある。あまりジタバタしない方がいいぞと、アイスピックと包丁と果物ナイフを一斉に突きつけられている気分になる。しかし、気分はあくまで気分で、爆弾を抱えた気違いに出くわした場合に、気分なんてとるに足らぬものであり、重要なのは己の肉体のみということになる。轍鮒の急に於いて、気分を優先する者はひとりとしておらぬ。轍鮒の急のさなか、我々は既に鮒であり、鮒には気分なんて夾雑物はなく、ただ如何にして生きるか、如何にして泳ぐかということだけがアタマにある。鮒に限らず、魚は皆んなそうである。それだから、あれほど強靭な生命力を持ちうるのだ。
生きるということを、一徹に考え、死を克服する。これこそが、考える葦の急務であり、生きる姿勢だとか、死への恐怖だとか、そういうものは、一時おれが預かっておく。哲学はオモチャだ。オモチャは仕事を終えてから構ってやればいいわけで、オモチャに拘泥して、それで死んでしまっては元も子もないではないか。先ずはじめに、魚の如く、鮒の如くに生き抜くことだけを思い、不死を得てからオモチャで遊べばよい。おれとて、オモチャの美点に気づいていないわけではない。オモチャは素晴らしい。投げてもいいし、蹴ってもいい。球ばかりではなく、オモチャはなんでも投げてもいいし、蹴ってもいいのだ。ヤマアラシがオモチャにならぬ理由はそこにある。全身を覆う針のせいで、投げても痛いし、蹴っても痛い。これでは、投げるのも、蹴るのもままならぬ。ヤマアラシはオモチャには向いてない。しかし、ヤマアラシは、仕事でもない。ヤマアラシの仕事なんて、思いつかない。だから、ヤマアラシは、なんでもない。ヤマアラシはなんでもないのだ。しかし、数えきれぬほどの針が生えているのは、恰好いい。鮒はカラダに針は生えてはおらぬが、恰好いい。なぜなら、死なぬからだ。全身に針を生やすか、死を超越するか、どちらを取るかは各人に任せるが、おれは全身に針を生やした上で、死ななかったら、いいと思う。あとおれは電車が好きだ。街の間を驀進し、朝と共に走り、昼をすり抜け、夜を切り裂く。おれもかくの如くありたいと思う。なぜなら、電車は死なぬからだ。故障し、走り得ず、錆びて、放棄されていても、電車は死んではいないのだ。電車の目は炯々と尖り、電車の魂はその堅牢な車体の裡に鎮座し、絶えず燃え続けているのだ。Bang! Bang! Bang! おれはいきなりピストルを三度撃つ。

啞のフリする娘っ子


虎を見せろ。虎を見せろよ。赭顔酩酊の如く、太陽のような禿頭の老体が、そういって柳眉をデタラメに曲げた娘に肉薄している。虎を見せろってば。いい加減虎を見せてくれてもいい頃合いだろう。赭顔窒息の如き老人、そういう。娘はもはや柳眉とすらも言い難いほどに難渋した様子で、寒夜の如く緘黙している。無論娘は虎など持っていないのだから、虎を見せろと怒鳴りつけられたところで、コンワクしてなんの反応もできぬままだんまりになってしまうのもわけはないことであり、虎を見せろ。一刻もはやく虎を見せねば、わしは罪を犯す。大いに罰せられるべき罪を犯すことも吝かではない。言下に娘は岩石の如く緘黙し、表情もやや岩石めいてきていていつ岩石になってしまってもおかしくないのだが、老人は如何にも老人らしく老眼であり、娘は岩石になりかけていることなどまるで気づいていない。虎が見せられぬというのであれば仕方がない。ないものは見せられぬ。わしも痴呆ではないから、その道理はたやすく分かる。単純明快。わっはっは。ならば、どうだろう。虎の鳴きマネをしてもらおうではないか。それで納得して頂きたい。娘の相好もやや柔和になり、蒸した芋程度には見られるようになっているが、しかし乙女には羞らいというものがあり、見知らぬ老人に虎の鳴きマネを聞かれることほど居た堪れないことなど他にないのだから、もしそのようなことが起こったが最後、生涯嫁げぬというようなつもりでいるのであって、詰まるところこの娘は虎の鳴きマネなんぞをする筈がないのである。そんでふたりともウソみたいに飛ばしてるプリウスに轢かれて死んだ。それきり。

チャイニーズ・アクション・ファン

 

今年の夏は凡百の事件が起こっていて、油断がならぬ。
先ず、外国の人が皆んな、せーのでくたばった。混血児は、まだ見てないから、状態は分からぬが、おそらくハーフなら半分死に、クォーターなら四分の一死んだのだろう。なぜ、日本人以外が息絶えたのか、わけは知らぬ。どうやら、道理など介さなくとも、あらゆる物事が起こり得る世界になったようである。旧態依然と、理屈に頼っていては、やってられぬ世界になったようなのだ。同じ頃に海の色が無くなったのも、畢竟そういうことなのだろう。色がないとは言い条、透明というわけでもない。ただ、色がないのだ。海水に問題があるのか、お天道様に問題があるのか、我々日本人の眼球に問題があるのか、それすらも見当がつかぬ。無論いくら沈思黙考、熟慮や考慮を重ねども、はなから道理が無視されている可能性が多分にあるのだから、考えることは徒労なのやも分からん。しかし、魚はまだ美味い。サメも、エイも、エビも、フグも元気横溢せんばかり。それだけで十分である。それだけで、十分である。
外野の愛護の声が失せたからか、イルカの価値は甚だしく下落し、子供が道端で売っている始末である。大方そういうイルカは管理がなっておらぬ故、交渉の折から気息奄々であり、況や、持ち帰る道中で事切れる。近いうちにイルカ管理法という、イルカを管理することを目的とした法律が施行されるらしい。諸国の目がなくなってから、政府はまったくメチャメチャであり、知的障害者の中でもとりわけアタマのおかしい連中に銃を支給しはじめたり、ありったけの電力を用いて、夜を夜でなくしたり、ちょっと前にも二日間だけ膝禁止法という、膝を使用したら罰せられるという無体な法律が定められ、酷く難儀したものである。それだから、新しく制定された法律の中では、イルカ管理法は大いに人道的でマトモな法律であり、ようやくお偉方のアタマが冷えたのかとひと安心している。銃を所持した知的障害者は、皆一様に自殺を図った。やはり銃は素晴らしい武器であり、これまでのすべての自殺が成功している。
ちゃんと管理されたイルカは闇屋だけでなく、百貨店などでも、安く手に入る。金の価値も著しく下がったのだ。だから、闇屋はほとんど機能しておらず、もうあまり姿を見ない。仄聞するところに依ると、持ち主が死んで、放ったらかしにされている銃を拾って、自害しているそうだ。別に死ぬこともないだろうに。
おれも時流に乗って、イルカを飼いはじめた。イルカはなんでもキュイキュイで、魚を遣ってもキュイキュイだし、水を取り替えて遣ってもキュイキュイである。こういうと随分と可愛らしく思えるが、ちょうど腹の立つ音程でキュイキュイと鳴きやがるから、あまりいいものではない。ある朝目覚めて、ささやかないやがらせとして、わけもなく昏睡しているイルカを起こしてやろうと、カナヅチを振り上げ、思いきりイルカのアタマに打ちつけたところ、まったく起きる気配が見えぬので、訝しく思っていたら、そのうちイルカの息がないのに気づいた。エイズだったらしい。おれは医者だから、そういうのはすぐ分かる。
もうひとつの大きな変化としては、音速がぶっちぎりで一等になったということがある。光速なんぞなんのその、雷鳴がいちはやく轟き、肝腎のイナズマは後から必死に追いかけている。無論、花火に於いても同じことである。

寸毫の前触れもなく、空が割れるような轟音が鳴り響くのは、やっぱり驚くもので、はじめのころはワッとビックリしていたが、海の色が無くなってから、矢継ぎ早に雷が落ちるようになったため、もう皆んな慣れっこである。音のないイナズマはひょろひょろで、恐るに足るものではなく、中天を走るイナズマに向けてパチパチと拍手するやつなども現れはじめ、いまでは赤子ですら舐め腐った顔で指笛を吹いている。思うに、以前の我々はイナズマの後の轟音に恐怖していたのだろう。顔の潰れた人生の女優が、イナズマを見る度に上げていた悲鳴も、轟音の予感に向けられていたのであって、はなからギザギザの光などは軽視していたのである。雷鳴を克服した我々にとって、いまや雷は脅威ではなくなってしまったのだ。
殺人はまだあるようだが、日本人が孤立して以来、通り魔のウワサはとんと聞かなくなった。なんか、もう、どうでもよくなったのだろう。
マイケル・ジャクソンがとうに鬼籍に入っているからか、外人が死んで悲しむ者はあまりいなかった。日本人にとって、マイケル・ジャクソンは外人という役割をすべて担っていたから、当然のように思う。しかしおれは、ジャッキー・チェンが死んだことが非常に悲しい。この頃は、日産が勝手に売りはじめたプロジェクトAを購って、寝食を惜しみ、そればかりを繰り返し観ている。

東京ラッシュで三途の水音

 

暗然たる夜を驀進す、人数甚しき南武線。満員の熱気で窓が曇り、外を見ることもままならず、いよいよ密室の様相である。大勢の汗の匂いと混ざった、胸のわるくなる酸っぱい酒気が重く漂っている。車内を見遣ると、目に涙を溜めて、嘔吐しそうになっている人がチラホラあるが、こんなとこで吐かれたら堪らぬ。吐瀉物の匂いで、続いて嘔吐する者が現れでもしたら大変である。おそらくまたそれに追従する者もあるだろうから、この車輌にいる乗客はやがて吐瀉物に溺れてしまうやも分からない。酸鼻に堪えぬ。まだ誰も吐いておらぬ今から眩暈がする。眼前の男のカラダが不条理に揺れていて、アタマの中を撹拌されているような気分になる。このままでは、おれが真っ先に吐いてしまいそうである。
駅に着いてドアが開き、蒸した車内に冷たい夜気が入ってくる。最前にクラクラするようなことを考えていたから、尋常より清々しく感じる。しかし十分に休むより先に、なんの憚りもなく赭顔酔歩の乗客が、我先にと押し合い圧し合いゴタゴタ闖入してくる。これより混雑しては忍び難いと、おれは悵然たる気持で太息し、直立もできぬ腑抜けになってしまう。その脱力したところを無礼な中年に押され、蹌踉した隙にアレヨアレヨと距離を詰められる。そして背後に鉄壁を感じて振り向くと、魁偉たる肉体をもった男が日々の鍛錬を発揮せんと踏ん張っている。互いの圧力がおれにかかり、みじんの抵抗もできぬまま、少し宙に浮いた。十三貫に満たぬ痩せっぽちのおれはいよいよ虫の息である。なぜ電車の中で浮かねばならんのだ。ウヌ。憎いか、おれが憎いか。畜生、おれは手前らが憎い。しかしこれでおれが手前らに敵わぬのは重々承知した。だからもう許しておくれ。白旗振り振り、お助けお助け。人いきれによって判然としない視界の中で、車外の人だけが生き生きとしていて、やけに嫉ましく思える。満足に身動きもとれぬ今となっては、一度電車から降りて休息することも能わぬ。すっかり観念して、絶入の準備にかかったその折に、神の情けか、うまい具合にふたりの間をすり抜けて、ちょっとした隙間に足がついた。圧死を免れ、ひと安心するも、ただならぬ疲労である。これではまともに立ってはいられぬ。へとへとに疲弊しているおれに性懲りもなく肉薄してくる馬鹿がいる。最前の無礼者とはまた違うやつだろうが、この際関係あるものか。刃傷沙汰も吝かでないぞ。棒切れの如き両足と、別段疲れておらぬ拳に力を入れて、敢然と顔を上げると、おれの眼下でチンチクリンの小男が必死の形相でエイエイやっている。おれを押すのを止したら、難なく立っていられるだけの場所はあるように思える。まったく業腹である。全体コイツはどういうつもりなのだ。たとえ如何なる了簡であっても、おれは疲れているのだから、押すのはもう止してほしい。おれも撲るのはひとまず止しておくから。
おれのすぐ近くでは、カラダの小さい女が背広の男らに四囲されていて、先のおれと同様に気息奄々といった様子である。少々憐愍の情にかられるが、しかし女の容貌は宛然と猿に似たり。いやはや、タイヘンそうね。ともあれ今が踏ん張りどきだよ。頑張って堪えなさい。
それにしても乗客と降りた人の数がてんで釣り合っておらぬ。なんじゃい、そこまでして帰りたいか。畜生。終いにゃお前らのアタマの上で横になるぞ。おれにはその覚悟ができているんだぞ。決して圧迫される憂いのない小部屋から、悠々と車掌が合図をして、ようやくドアが閉まった。発車の反動で立っていられなくなった見知らぬ年増女に、危うく目潰しをされかけた。馬鹿野郎、顛倒しそうだからといえど、こんな人混みの中で闇雲に手を上げるんじゃない。この場で失明したら、もう発狂するより他はあるまい。くそ、やり切れぬ。目的の駅まであと三つあると思うと、まったく気が遠くなる。

托鉢僧に就て

 

ある休日、徒然に身を任せ、立川まで出た。

しかし、我失望せり。駅前に傲然と構える托鉢僧の姿の腹立たしさよ。まだ大した報いも受けず、当り前の顔でチリンチリンしてやがる。どうやらあの許しがたい乞食崩れを、まだ誰も殺さぬというのだ。ああ、なんて優しきビューチフル・ワールド! バーカ、バカバカ。まさか、いずれ托鉢僧が仲間割れをして殺しあうだろうと高を括って、いまは静観、胸の裡では瞋恚の炎を燃やしながらも、努めて取り澄ましているというのか。お前らはなんて贅沢で、強慾で、寝ぼけているんだ。

全体なぜ誰も殺さぬのだ。あんな、この、クソが。見ろ、托鉢の畜生の股から垂れた布を見てみろ。行雲流水、と、そう書いてある。ふざけたことを、抜かすんじゃない。おれはとうとう我慢がならなくなった。
元来、托鉢僧がどういう連中なのかは分からぬ。おれが知ったとき、托鉢僧は、既に乞食であった。僧、という呼び名から類推するに、はじめは修行の一環であったのだろう。たしかに、袈裟をまとってチリンチリン、行人の善意を集めて糊口を凌ぐとは、いかにも修行らしく、徳も大いに養えそうである。しかし、いまの托鉢僧はまるで違う。ただの乞食崩れだ。乞食というのは、つまり野良ということだ。ゴミを漁って、残飯を食べ、ある時には偸盗も辞さぬということだ。野良は野良で、犬も猫も人もない。いずれ、やることは同じなのだ。乞食の生活を三日続けると、人は元の生活へは戻れなくなってしまうという。その秘密は大方こんなところにあるのだろう。あらゆる約束の中に住まねばならぬ人間にとって、乞食はアコガレの存在である。憧れないわけがないだろう。一切の登録を放ってしまっているのだ。誰もがかくの如くありたいと思うものだ。おれとて例外ではない。乞食には大いなるアコガレと、少量の尊敬と、冷笑と軽蔑の目を以って接している。

乞食は諦めているのだ。無限の自由であるには、人間ではあり得ないのだ。義務を果たさぬ代わりに、権利を主張せんのだ。だから、おれは乞食をきらいにはなれぬ。慎ましいとすら、感じる。
しかし、托鉢僧の阿呆ときたら、なんだ。やつらはうす汚れた鐘をチリンチリンして、権利を主張するのだ。無論、義務など果たしているわけがない。それだから、憎い。やってられぬ。なーにが、行雲流水じゃ、ボケ。行く雲の如く、流る水の如く生きて、挙句チリンチリン。そんなわけあるか。ふざけるんじゃない。行雲流水の落魄とは、人間でなくなることだ。犬になることだ。猫になることだ。野良になることだ。自らの沈淪を、己の望む生き方だといって片づけてしまうようなやらしさは、犬や猫にはない。人間にしかないのだ。人間であってはならぬ者が、人間の特権を当然の如く使いやがる。そんな人間らしいことをするならば、路上で寝てはならぬ。相済まぬ問題である。托鉢僧などといって、高尚ぶって、蓋を開けりゃ人モドキ。そんなバカな話があってはならぬ。

托鉢僧よ、人々を瞞着するのもいい加減にし給え。お前らは、もう、死なねばならんのよ。

よく寝る


おれはよく眠る。勤めがある日もそうであるが、予定がない日であれば、殊更酷いもので、ほとんど際限はなく、ほとほと嫌気が差してしまうまで眠る。食慾や性慾はとうに見限っているから、あまり構ってやらぬが、どうも睡眠の慾というものに対しては、そこまで思い切れぬ。というのも、それは眠りには、行う、という感じがないからであり、立ちながらでも、食べながらでも、限界に達すれば、自然と眠ってしまえるものだからである。眠っている間は眠る他にはなにをすることもあり得ず、時には寝言を発することもあろうが、たとえ夢遊病者であっても、ハッキリとした意思でもって、それを行っているわけではないのだ。又、おれにとっては、目覚めるということも、眠っている最中には到底起こし得ぬ行為であるから、毎度無事に起きられるのはまったく偶然のようなものであり、思った通りの時間に起きられた場合には、ほとんど奇跡のような思いがするのだ。それだから、おれは寝坊をしてしまっても、いかんことをしたと後悔はするものの、遅刻に対する責任などは感じぬ。大した反省もせず、まあ仕方があるまいと居直ってしまうため、約束の相手に怒られるばかりか、呆れさせてしまうことも屢々である。しかし、おれとてひとつの策も講じずに、ただ恬然と開き直っているわけではなく、近所の電器屋でもっとも煩い目覚まし時計を購ってみたり、蒲団ではなく座椅子で眠ってみたりと、でき得る限りの尽力はしているのだが、それでも起きれぬのだから、仕方があるまい。懈怠しているわけでも、惰弱なわけでもなく、ただ純粋に、眠っている間に、起きるということがどうしても思いつかぬのだ。
おれはあまり夢を見ぬ。おれにとって、睡眠とは、たまゆらの出来事である。それだから飽き足りぬ思いをすることも多々あるが、しかし、夢を見ても同じことである。夢の続きが惜しくなるばかりで、畢竟睡眠は如何なる場合に於いても飽き足りぬものなのだ。
おれは毎日の義務として、睡眠をしているのではなく、毎度確固たる意志の下、睡眠に没入している。集中を極めると、時間の感覚をなくしてしまい、アラもうこんな時間なの、とア然としてしまうことがある。おれの睡眠は、詮ずるところ、こういったものなのであろう。