【短評】都市の駅

 

都市の駅はすり抜けるものだ。電車の乗降や、排泄や、仕事や、食事や、買い物をするところではない。ゴムの脳みそにウロウロ動かされている馬鹿や、鉛の如き体を引き摺る女や、油切れのブリキの老人や、往来の中心で立ち止まって手を振り振りサヨナラをするいかれた連中の間隙を必死で睨みつけて猫か蝿か突風に変身してすり抜けるところだ。別段急いてなくとも一定の速度を保って隙間を発見し左右しながら進むものである。その為、前方が突然大便のように詰まり、右にも左にも入り込む余地がない場合、速度を緩めることが能わず、他者の踵を巻き込むことになるが、その際にはおれは猫や蝿や突風から芝刈り機に形を変えることとなる。都市の駅ではともすると芝刈り機になってしまうおそれがあるので十分な注意が必要である。朝夕は芝刈り機への変身が増えて、おれはどうも心が擦れてしまうから、昼下がりや夜更け前を選んで改札に入るのだが、これは駅の利用が移動ではなくすり抜けることであるという、なによりの証左であろう。少なくとも、おれにとってはそうであり、渋谷駅で友人と待ち合わせをするときなどは、ハチ公へ向かっている間に、人々のホウ酸団子の渦に巻き込まれて正気を失い、待ち合わせのことはすっかり打ち忘れ、すり抜けることに躍起になってしまって、気がつくと待ち合わせの時刻に遅れるばかりか、終電すらも無くなっているということがしばしばである。別にすり抜けることがおれの至上の楽しみであるわけではないが、貧乏根性というか、せっかく都市の駅に来たのだから存分にすり抜けてやろうという悪心が我が頭を汚染して、ハイヒールの女とヨイヨイの老人や、口を開けて中天を覗くガキと笑っている若いつんぼの男や、ノロノロ転がる大きなゴム毬と昼食中のカマキリや、豚の番いの空隙を見つけ、するりと一陣の風となりて吹き抜ける度に、神から加点をされているような気分になる。正気に戻ってから思い返すと、天上で厳かに鎮座する神が人混みの中を必死の面魂でくぐり抜ける小男を見て、一点なり三点なり五点なりの札をあげるわけがありゃせんことは明白なのであるが、どうも、ひとたび駅に入ると、そうした勝ち敗けの世界であるように思えるのだ。

これまで都市の駅について、殊に都市の駅に於けるすり抜けについて述べてきた。すり抜けの勝負という立場から都市の駅を見ると、実に蠱惑的である。

しかし、都市の駅を評するにあたって、斯様な独善的な判断は禁物である。評価というのは公平でなくてはならん。然して、文学・音楽・映画・絵画・科学・化学・動物学・数学・語学などの、様々な観点から都市の駅を鑑みると、いずれの場合にもなにやら灰色がかった詮無いものとしてしか映らぬのである。従って、都市の駅は百点満点中、せいぜい十点くらいが適当であろう。この十という数字は、とはいえ都市の駅は移動に便利であるから、という個人的な同情の念を含めて割り出した数字である。

イエロウ

 

鬼という鬼が例外なく黄色になり、恰好がつかなくなってしまった。鬼は人々の笑いものになった。あれほど我々に怯懦していた弱虫どもが、我々のカラダの色が変わったからといって、なぜあれほどに威張れるのであろう。鬼たちは一様に、自らを鏡でとり囲み、反射した黄色のバケモノを笑った。そして黄色のバケモノが笑っていることに腹を立て、怒号を飛ばした。それから黄色のバケモノが必死でなんぞ叫んでいる様を見て、傴僂のように背中を丸めて大笑した。気が狂ったのだ。気違いになると、生き物は兇暴になる。無論鬼も兇暴になった。手当たり次第、猿を絞め殺し、猫を殴り殺し、蝶々を食べ、人に襲いかかった。しかしいくら兇暴といえど、気が違っているから、攻撃はメチャクチャである。ひたすら腕をぶん回しながら激突し、やたら雄叫びをあげるだけで、鬼気迫るものはあるが、鬼気迫っているから必ず強いという法もない。動物相手だったら歯止めの効かぬ腕力でどうにかなるかも分からぬが、武道を心得た人間にしてみれば、てんで格闘にならず、鬼たちは呆気なく空手の前に沈んだ。牢に入れられそうになり、這々の態で逃散した鬼は、皆んな符牒を合わせたかのように、山に籠りきりになってしまった。人目から離れて生活をやり直すというわけではない。気の触れた鬼が、そんなに健気である筈がない。鬼は銘々湿った木下闇で膝を抱え、こんな筈じゃなかっただとか、羸弱な人間などに負けるとは慚愧に堪えないだとか、空手めだとか、なぜおれたち鬼は黄色にだとか、ボソボソと呪詛の如く呟いているばかりであった。
次第に世情は変わってきた。黄色の鬼どものうらみつらみが堆積し、浮世に漂う窮窟な空気たるや。珍奇な黄色のカラダをしていても、鬼とだけあってその影響は凄まじく、海は濁り、魚は痩け、花々はただならぬ異臭を放ち、空は厚い雲に覆われ、蜂は常住坐臥嘔吐し続け、老人は寝たきりになり、子供は爬虫類の眼をして、ともかく散々であった。
黄色の鬼は恨むだけで、食糧を得る能がなかったから、やがて衰弱して絶滅した。しかし鬼の怨念は未だ衰えず、浮世を益々わるくした。海からは波が消えて、汚いゼリーになった。魚は痩けに痩け、糸のようになった後、無くなった。花々は腐り、太陽は無くなった。蜂は嘔吐を苦にして自殺した。老人も子供も青年も中年も、太陽が無くなったせいで、凍りついた。もう、どうにもならぬ。お祓いもまったく効かぬ。地球は、とうに終わってしまったのだ。

熊のコダワリ

 

こうじゃあ、いけないよなあ。おれが尋常の通り山道を歩く。人とバッタリと出くわす。あまりに唐突なことで半狂乱。食らう。こうじゃあ、いかん。どうしてかは分からんけど、ちょっと具合がわるいよなあ。おれがサッサと山道を歩く。人とバッタリ出くわす。さも意味ありげに肯く。向こうも厳しい顔で肯く。こうじゃなきゃなあ。どうもなあ。あんまりだよなあ。

狂人演説

 

 

人間は考える葦であるという。葦であるわけはいまひとつ思いつかないが、人間は考える葦であるという言葉には、そういうならそうなのであろうと納得してしまうような迫力がある。あまりジタバタしない方がいいぞと、アイスピックと包丁と果物ナイフを一斉に突きつけられている気分になる。しかし、気分はあくまで気分で、爆弾を抱えた気違いに出くわした場合に、気分なんてとるに足らぬものであり、重要なのは己の肉体のみということになる。轍鮒の急に於いて、気分を優先する者はひとりとしておらぬ。轍鮒の急のさなか、我々は既に鮒であり、鮒には気分なんて夾雑物はなく、ただ如何にして生きるか、如何にして泳ぐかということだけがアタマにある。鮒に限らず、魚は皆んなそうである。それだから、あれほど強靭な生命力を持ちうるのだ。
生きるということを、一徹に考え、死を克服する。これこそが、考える葦の急務であり、生きる姿勢だとか、死への恐怖だとか、そういうものは、一時おれが預かっておく。哲学はオモチャだ。オモチャは仕事を終えてから構ってやればいいわけで、オモチャに拘泥して、それで死んでしまっては元も子もないではないか。先ずはじめに、魚の如く、鮒の如くに生き抜くことだけを思い、不死を得てからオモチャで遊べばよい。おれとて、オモチャの美点に気づいていないわけではない。オモチャは素晴らしい。投げてもいいし、蹴ってもいい。球ばかりではなく、オモチャはなんでも投げてもいいし、蹴ってもいいのだ。ヤマアラシがオモチャにならぬ理由はそこにある。全身を覆う針のせいで、投げても痛いし、蹴っても痛い。これでは、投げるのも、蹴るのもままならぬ。ヤマアラシはオモチャには向いてない。しかし、ヤマアラシは、仕事でもない。ヤマアラシの仕事なんて、思いつかない。だから、ヤマアラシは、なんでもない。ヤマアラシはなんでもないのだ。しかし、数えきれぬほどの針が生えているのは、恰好いい。鮒はカラダに針は生えてはおらぬが、恰好いい。なぜなら、死なぬからだ。全身に針を生やすか、死を超越するか、どちらを取るかは各人に任せるが、おれは全身に針を生やした上で、死ななかったら、いいと思う。あとおれは電車が好きだ。街の間を驀進し、朝と共に走り、昼をすり抜け、夜を切り裂く。おれもかくの如くありたいと思う。なぜなら、電車は死なぬからだ。故障し、走り得ず、錆びて、放棄されていても、電車は死んではいないのだ。電車の目は炯々と尖り、電車の魂はその堅牢な車体の裡に鎮座し、絶えず燃え続けているのだ。Bang! Bang! Bang! おれはいきなりピストルを三度撃つ。

啞のフリする娘っ子


虎を見せろ。虎を見せろよ。赭顔酩酊の如く、太陽のような禿頭の老体が、そういって柳眉をデタラメに曲げた娘に肉薄している。虎を見せろってば。いい加減虎を見せてくれてもいい頃合いだろう。赭顔窒息の如き老人、そういう。娘はもはや柳眉とすらも言い難いほどに難渋した様子で、寒夜の如く緘黙している。無論娘は虎など持っていないのだから、虎を見せろと怒鳴りつけられたところで、コンワクしてなんの反応もできぬままだんまりになってしまうのもわけはないことであり、虎を見せろ。一刻もはやく虎を見せねば、わしは罪を犯す。大いに罰せられるべき罪を犯すことも吝かではない。言下に娘は岩石の如く緘黙し、表情もやや岩石めいてきていていつ岩石になってしまってもおかしくないのだが、老人は如何にも老人らしく老眼であり、娘は岩石になりかけていることなどまるで気づいていない。虎が見せられぬというのであれば仕方がない。ないものは見せられぬ。わしも痴呆ではないから、その道理はたやすく分かる。単純明快。わっはっは。ならば、どうだろう。虎の鳴きマネをしてもらおうではないか。それで納得して頂きたい。娘の相好もやや柔和になり、蒸した芋程度には見られるようになっているが、しかし乙女には羞らいというものがあり、見知らぬ老人に虎の鳴きマネを聞かれることほど居た堪れないことなど他にないのだから、もしそのようなことが起こったが最後、生涯嫁げぬというようなつもりでいるのであって、詰まるところこの娘は虎の鳴きマネなんぞをする筈がないのである。そんでふたりともウソみたいに飛ばしてるプリウスに轢かれて死んだ。それきり。

チャイニーズ・アクション・ファン

 

今年の夏は凡百の事件が起こっていて、油断がならぬ。
先ず、外国の人が皆んな、せーのでくたばった。混血児は、まだ見てないから、状態は分からぬが、おそらくハーフなら半分死に、クォーターなら四分の一死んだのだろう。なぜ、日本人以外が息絶えたのか、わけは知らぬ。どうやら、道理など介さなくとも、あらゆる物事が起こり得る世界になったようである。旧態依然と、理屈に頼っていては、やってられぬ世界になったようなのだ。同じ頃に海の色が無くなったのも、畢竟そういうことなのだろう。色がないとは言い条、透明というわけでもない。ただ、色がないのだ。海水に問題があるのか、お天道様に問題があるのか、我々日本人の眼球に問題があるのか、それすらも見当がつかぬ。無論いくら沈思黙考、熟慮や考慮を重ねども、はなから道理が無視されている可能性が多分にあるのだから、考えることは徒労なのやも分からん。しかし、魚はまだ美味い。サメも、エイも、エビも、フグも元気横溢せんばかり。それだけで十分である。それだけで、十分である。
外野の愛護の声が失せたからか、イルカの価値は甚だしく下落し、子供が道端で売っている始末である。大方そういうイルカは管理がなっておらぬ故、交渉の折から気息奄々であり、況や、持ち帰る道中で事切れる。近いうちにイルカ管理法という、イルカを管理することを目的とした法律が施行されるらしい。諸国の目がなくなってから、政府はまったくメチャメチャであり、知的障害者の中でもとりわけアタマのおかしい連中に銃を支給しはじめたり、ありったけの電力を用いて、夜を夜でなくしたり、ちょっと前にも二日間だけ膝禁止法という、膝を使用したら罰せられるという無体な法律が定められ、酷く難儀したものである。それだから、新しく制定された法律の中では、イルカ管理法は大いに人道的でマトモな法律であり、ようやくお偉方のアタマが冷えたのかとひと安心している。銃を所持した知的障害者は、皆一様に自殺を図った。やはり銃は素晴らしい武器であり、これまでのすべての自殺が成功している。
ちゃんと管理されたイルカは闇屋だけでなく、百貨店などでも、安く手に入る。金の価値も著しく下がったのだ。だから、闇屋はほとんど機能しておらず、もうあまり姿を見ない。仄聞するところに依ると、持ち主が死んで、放ったらかしにされている銃を拾って、自害しているそうだ。別に死ぬこともないだろうに。
おれも時流に乗って、イルカを飼いはじめた。イルカはなんでもキュイキュイで、魚を遣ってもキュイキュイだし、水を取り替えて遣ってもキュイキュイである。こういうと随分と可愛らしく思えるが、ちょうど腹の立つ音程でキュイキュイと鳴きやがるから、あまりいいものではない。ある朝目覚めて、ささやかないやがらせとして、わけもなく昏睡しているイルカを起こしてやろうと、カナヅチを振り上げ、思いきりイルカのアタマに打ちつけたところ、まったく起きる気配が見えぬので、訝しく思っていたら、そのうちイルカの息がないのに気づいた。エイズだったらしい。おれは医者だから、そういうのはすぐ分かる。
もうひとつの大きな変化としては、音速がぶっちぎりで一等になったということがある。光速なんぞなんのその、雷鳴がいちはやく轟き、肝腎のイナズマは後から必死に追いかけている。無論、花火に於いても同じことである。

寸毫の前触れもなく、空が割れるような轟音が鳴り響くのは、やっぱり驚くもので、はじめのころはワッとビックリしていたが、海の色が無くなってから、矢継ぎ早に雷が落ちるようになったため、もう皆んな慣れっこである。音のないイナズマはひょろひょろで、恐るに足るものではなく、中天を走るイナズマに向けてパチパチと拍手するやつなども現れはじめ、いまでは赤子ですら舐め腐った顔で指笛を吹いている。思うに、以前の我々はイナズマの後の轟音に恐怖していたのだろう。顔の潰れた人生の女優が、イナズマを見る度に上げていた悲鳴も、轟音の予感に向けられていたのであって、はなからギザギザの光などは軽視していたのである。雷鳴を克服した我々にとって、いまや雷は脅威ではなくなってしまったのだ。
殺人はまだあるようだが、日本人が孤立して以来、通り魔のウワサはとんと聞かなくなった。なんか、もう、どうでもよくなったのだろう。
マイケル・ジャクソンがとうに鬼籍に入っているからか、外人が死んで悲しむ者はあまりいなかった。日本人にとって、マイケル・ジャクソンは外人という役割をすべて担っていたから、当然のように思う。しかしおれは、ジャッキー・チェンが死んだことが非常に悲しい。この頃は、日産が勝手に売りはじめたプロジェクトAを購って、寝食を惜しみ、そればかりを繰り返し観ている。