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浮世はアベコベ


よく分からん良識によって、本音と建前がアベコベになっているせいで、碌々心中を表白することもままならず、ぶくぶく腹蔵ため込んで、皆んなが皆んなやらしく捻れている。
もはや、頃日は、電車ですらアベコベだ。昔は一等と呼ばれていたものが特別になって、三等が普通とされている。特別とは、詮ずるところ、異常だということだ。低級車をアタリマエだとしてしまえば、そりゃ、不平は出ぬが、しかし、これが差別でなくてなんだというのだ。レイシズムも骨身に徹してしまえば、ほとんど忘我の域であり、白昼堂々行っても、平然飄々としていられるばかりか、それで案外罷り通ってしまうらしい。決められた通りに、少々多くの金銭を払って、安んじて移動をしている人を指して、特別だとは何事だ。尋常でないとは、全体どういう了簡だ。自分の常識と違ったら、特別だというのか。何様だってんだ、バカヤロー。自分より劣った者を差別するならば理屈は分かるが、自分より優れたところにいる者を差別するとは、まったくアベコベで話にならぬ。
私は普通が善良だとは思わぬ。よく最善を尽すなどというが、あれと善良とは全然違っていて、最善とは、もっとも波風が立たぬから、最善なのだ。俗にいう最善なんてものは、所詮は言葉遊びだ。常識への阿諛追従では、済まない場合というのも、善良にはあるのだ。むしろ、常識と善良というのは、まったくの反対であって、常識だとか、道徳だとかと同じように、手グセで判断を下してしまっては、善良は到底勤まらぬ。
常識はカンタンだ。他に倣えばよい。善良はタイヘンだ。自らの道理に適った正答を、自分のアタマで拵えねばならん。惰弱な輩は、常識の上にどっかり鎮座していながら、善良を気取りやがる。
善良であるということは、面白くあるということと宛然と似たり。笑いを得たいと思えば、多少の失礼無礼、品性に欠ける言動も仕方がないのだ。無論他人にメイワクをかけてはならないが、規則などは顧慮しなくても構わぬのだ。規則を破るところからまず笑いははじまるのである。破るべき規則と、破るべからぬ規則の判断を正しく行える者は、やはり面白く、又、善良である場合が多くある。然らば、自らの礼節、本音と建前を笑いから拵えるというのも、ひとつの手である。