托鉢僧に就て

 

ある休日、徒然に身を任せ、立川まで出た。

しかし、我失望せり。駅前に傲然と構える托鉢僧の姿の腹立たしさよ。まだ大した報いも受けず、当り前の顔でチリンチリンしてやがる。どうやらあの許しがたい乞食崩れを、まだ誰も殺さぬというのだ。ああ、なんて優しきビューチフル・ワールド! バーカ、バカバカ。まさか、いずれ托鉢僧が仲間割れをして殺しあうだろうと高を括って、いまは静観、胸の裡では瞋恚の炎を燃やしながらも、努めて取り澄ましているというのか。お前らはなんて贅沢で、強慾で、寝ぼけているんだ。

全体なぜ誰も殺さぬのだ。あんな、この、クソが。見ろ、托鉢の畜生の股から垂れた布を見てみろ。行雲流水、と、そう書いてある。ふざけたことを、抜かすんじゃない。おれはとうとう我慢がならなくなった。
元来、托鉢僧がどういう連中なのかは分からぬ。おれが知ったとき、托鉢僧は、既に乞食であった。僧、という呼び名から類推するに、はじめは修行の一環であったのだろう。たしかに、袈裟をまとってチリンチリン、行人の善意を集めて糊口を凌ぐとは、いかにも修行らしく、徳も大いに養えそうである。しかし、いまの托鉢僧はまるで違う。ただの乞食崩れだ。乞食というのは、つまり野良ということだ。ゴミを漁って、残飯を食べ、ある時には偸盗も辞さぬということだ。野良は野良で、犬も猫も人もない。いずれ、やることは同じなのだ。乞食の生活を三日続けると、人は元の生活へは戻れなくなってしまうという。その秘密は大方こんなところにあるのだろう。あらゆる約束の中に住まねばならぬ人間にとって、乞食はアコガレの存在である。憧れないわけがないだろう。一切の登録を放ってしまっているのだ。誰もがかくの如くありたいと思うものだ。おれとて例外ではない。乞食には大いなるアコガレと、少量の尊敬と、冷笑と軽蔑の目を以って接している。

乞食は諦めているのだ。無限の自由であるには、人間ではあり得ないのだ。義務を果たさぬ代わりに、権利を主張せんのだ。だから、おれは乞食をきらいにはなれぬ。慎ましいとすら、感じる。
しかし、托鉢僧の阿呆ときたら、なんだ。やつらはうす汚れた鐘をチリンチリンして、権利を主張するのだ。無論、義務など果たしているわけがない。それだから、憎い。やってられぬ。なーにが、行雲流水じゃ、ボケ。行く雲の如く、流る水の如く生きて、挙句チリンチリン。そんなわけあるか。ふざけるんじゃない。行雲流水の落魄とは、人間でなくなることだ。犬になることだ。猫になることだ。野良になることだ。自らの沈淪を、己の望む生き方だといって片づけてしまうようなやらしさは、犬や猫にはない。人間にしかないのだ。人間であってはならぬ者が、人間の特権を当然の如く使いやがる。そんな人間らしいことをするならば、路上で寝てはならぬ。相済まぬ問題である。托鉢僧などといって、高尚ぶって、蓋を開けりゃ人モドキ。そんなバカな話があってはならぬ。

托鉢僧よ、人々を瞞着するのもいい加減にし給え。お前らは、もう、死なねばならんのよ。