読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

東京ラッシュで三途の水音

 

暗然たる夜を驀進す、人数甚しき南武線。満員の熱気で窓が曇り、外を見ることもままならず、いよいよ密室の様相である。大勢の汗の匂いと混ざった、胸のわるくなる酸っぱい酒気が重く漂っている。車内を見遣ると、目に涙を溜めて、嘔吐しそうになっている人がチラホラあるが、こんなとこで吐かれたら堪らぬ。吐瀉物の匂いで、続いて嘔吐する者が現れでもしたら大変である。おそらくまたそれに追従する者もあるだろうから、この車輌にいる乗客はやがて吐瀉物に溺れてしまうやも分からない。酸鼻に堪えぬ。まだ誰も吐いておらぬ今から眩暈がする。眼前の男のカラダが不条理に揺れていて、アタマの中を撹拌されているような気分になる。このままでは、おれが真っ先に吐いてしまいそうである。
駅に着いてドアが開き、蒸した車内に冷たい夜気が入ってくる。最前にクラクラするようなことを考えていたから、尋常より清々しく感じる。しかし十分に休むより先に、なんの憚りもなく赭顔酔歩の乗客が、我先にと押し合い圧し合いゴタゴタ闖入してくる。これより混雑しては忍び難いと、おれは悵然たる気持で太息し、直立もできぬ腑抜けになってしまう。その脱力したところを無礼な中年に押され、蹌踉した隙にアレヨアレヨと距離を詰められる。そして背後に鉄壁を感じて振り向くと、魁偉たる肉体をもった男が日々の鍛錬を発揮せんと踏ん張っている。互いの圧力がおれにかかり、みじんの抵抗もできぬまま、少し宙に浮いた。十三貫に満たぬ痩せっぽちのおれはいよいよ虫の息である。なぜ電車の中で浮かねばならんのだ。ウヌ。憎いか、おれが憎いか。畜生、おれは手前らが憎い。しかしこれでおれが手前らに敵わぬのは重々承知した。だからもう許しておくれ。白旗振り振り、お助けお助け。人いきれによって判然としない視界の中で、車外の人だけが生き生きとしていて、やけに嫉ましく思える。満足に身動きもとれぬ今となっては、一度電車から降りて休息することも能わぬ。すっかり観念して、絶入の準備にかかったその折に、神の情けか、うまい具合にふたりの間をすり抜けて、ちょっとした隙間に足がついた。圧死を免れ、ひと安心するも、ただならぬ疲労である。これではまともに立ってはいられぬ。へとへとに疲弊しているおれに性懲りもなく肉薄してくる馬鹿がいる。最前の無礼者とはまた違うやつだろうが、この際関係あるものか。刃傷沙汰も吝かでないぞ。棒切れの如き両足と、別段疲れておらぬ拳に力を入れて、敢然と顔を上げると、おれの眼下でチンチクリンの小男が必死の形相でエイエイやっている。おれを押すのを止したら、難なく立っていられるだけの場所はあるように思える。まったく業腹である。全体コイツはどういうつもりなのだ。たとえ如何なる了簡であっても、おれは疲れているのだから、押すのはもう止してほしい。おれも撲るのはひとまず止しておくから。
おれのすぐ近くでは、カラダの小さい女が背広の男らに四囲されていて、先のおれと同様に気息奄々といった様子である。少々憐愍の情にかられるが、しかし女の容貌は宛然と猿に似たり。いやはや、タイヘンそうね。ともあれ今が踏ん張りどきだよ。頑張って堪えなさい。
それにしても乗客と降りた人の数がてんで釣り合っておらぬ。なんじゃい、そこまでして帰りたいか。畜生。終いにゃお前らのアタマの上で横になるぞ。おれにはその覚悟ができているんだぞ。決して圧迫される憂いのない小部屋から、悠々と車掌が合図をして、ようやくドアが閉まった。発車の反動で立っていられなくなった見知らぬ年増女に、危うく目潰しをされかけた。馬鹿野郎、顛倒しそうだからといえど、こんな人混みの中で闇雲に手を上げるんじゃない。この場で失明したら、もう発狂するより他はあるまい。くそ、やり切れぬ。目的の駅まであと三つあると思うと、まったく気が遠くなる。