強烈なるフライングV

 

 

水曜の昼下がり、おれは尋常の通り出勤をした。おれ自身は尋常の通りであったのだが、ひとつ尋常でないことがあった。二階の事務所内を、一匹のトンボがパトカーの如き激しさで危険を訴えながら、白バイの如き鋭さでアチコチ飛び回っていたのだ。コンピューターと電話と紙面にかかり切りで、事務所に巣食う半魚人共はてんで気づいておらず、パッチリ二重のおれだけがトンボの軌道を追っていた。「今日はだめだぜ」「大安の水曜日は魔女の曜日よ」「魔女って、糞と豚の合いの子なのよ」「とんでもねえぜ! トンボでもねえぜ、ってな、ワハ」「狂ったチワワもいつもより来ることだしよ」「いやだわ」 おれには昆虫の雌雄が分からぬので、どちらでも対応できるように、言葉遣いをしっちゃかめっちゃかにしてあるが、ともかく、おれはトンボの言語を解するから、トンボの言うことならばなんでも聞き取れるのだ。これまで様々なトンボの声を聞いたが、大安の水曜が魔女の日であるとは知らなかった。最近できたばかりの決まりなのだろうか。しゃれている。蓋し、人間の間では流行らぬ考えだろう。中世であれば望みはあったかも分からぬが、我々現代人からすると、魔女というのは、あまりピンとこない。トンボの規則がトンボにしか通用しないように、最前のトンボの警告も、どうせトンボにしか通用せんであろうと思い、おれはさして気にせず階下の広間に向かった。映画館のアルバイトは楽々だ。とはいえ、やはり都心の映画館であればそうはいかぬだろう。なんとなれば、都心だから。然らば、地方へ行けば行くほど楽チンなのか、と思うやもしれんが、地方は地方で、そもそもの映画館の数が少ないから、カッペが雲集して大変らしいよ。おれは東京の都心からちょっと外れたシネコンが一等空いてると見ている。現に我が職場は、年の半分は閑古鳥が爆笑しているし、アルバイト同士は閑談をしている。
この大安の水曜日も例の如くであった。入場を待っている客は広間にチラホラ目につくばかりで、入場券を購う人もそのときは三人しかいなかった。数時間前からシャカリキを演じて退屈しきっている早番連中に目礼しつつ、おれは帳面を手にとって、映画の宣伝に関する情報を眺めていた。どうやら上のやつらは、誰が得するのかよく分からぬ新作映画のキャンペーンを行うらしい。あら、そう。人間は皆んな承知していると思うが、キャンペーンというものの正体とは、ちょっとのことでは家内から出てこない吝嗇のミドリガメや、無関心のバッタ、その辺の犬コロに向かって、細かくちぎった金銀をばら撒いて音を立て、どうにか注目を集めんとするお調子者である。必死の佯狂である。やつらは、はなから好事のトリケラトプスを相手にしていないし、無論トリケラトプス自身もそんなものには興味がない。彼らは金銀でなく、新鮮な草が食べたいのである。おれは、草食で襲われる見込みが少なく、又、映画という酔狂を好むトリケラトプスと友達になれば万事解決であると思うのだが、なんか、そうもいかないらしい。人間風情にゃよく分からん話か、などとパンク気取りで考えている折、「なんかー、生理がこないんですよねえ」と、おれの隣に立っていた年増の主婦のスタッフに向かって、ちょうど糞と豚の合いの子のような太った女学生のスタッフが一方的に話していたのが耳に入った。数人とはいえ客が近くにいる状況で、またぐらの話をしてるとは努々信じられなかったので、おれはウサギに変身した。白に灰色の混じったウサギである。「もしかしたら妊娠したかもなんですよねえ。生理が一日遅れてて……」「大丈夫? 最近具合わるかったりするの?」「いや多分、彼氏かなあ。やばい……」 ウサギに変身していたから、いつもより周囲の音がハッキリと聞こえた。おれの頭上で暖房が鳴っている。自動扉が開いて、閉まりかけて、再び開いた。女性用便所では今、六人が用を足していて、男性用便所は二人だ。館内を白蟻が闊歩している。地下ではもぐらがキリンジを歌っている。明日の方向から雨雲が迫ってきている。冬が軋み、春が地図を片手に近づいている。それと、やはりこの馬鹿は自らのまたぐら関係の話をしている! しかも、どこか殊勝げな声色である! この女は、気違いだ! おれは震えていた。いまのおれはウサギだから、多少敏感になってしまっているのかもしれないと、あわてて人間に戻ってみたが、依然震えたままであった。確かにあの気違い女のこれまでの発言や振るまいからは常に莫連の予感があって、おれは、まあ好きではないし気持ちわるいから関わらんでおこうと考えていた。しかし、いままでは震えが起こらなかった。きっとおれは、莫連自体にアレルギーを持っているわけではないのだ。つまり、おれは、気違いとその彼氏との漁色と肉慾の行為を想像して、慄いているのではなく、このとことんまでいかれてしまっている女の「彼氏との交わりが原因で妊娠って、かっちょいいでしょう。憧れるでしょう。アナーキーでロックンロールでしょう。私は強い女性の代表よ。その証拠に、今日はレディースデーじゃないの。1100円なのよ」とでも言いたげな口吻に怯懦していたのだ。それをなぜか子持ちの主婦にひけらかすという、いささか倒錯した手口も、より恐ろしい。いやしかし、こんな独りよがりの偏見で人を気違いだなんて言ってはだめだ…… たとえ、太り過ぎが原因か、年がら年中顔面に原理の分からぬ赤みが差していて、ミシュランマンにそっくりの体型をした女が、自分のまたぐらの話を割合大きな声でしていたとしてもだ!
おれはその後、自らの独善的な管見を恥じ入り、頭の中でトンボに不信の詫びを入れながら、静かに業務をこなして二十二時頃に退勤した。翌日も遅番のシフトが入っていたので、不承不承、電車を乗り継ぎ出勤をした。今日はミシュランの女はいない筈であるし、大したことは起こらないだろうと安心していた。予想通り、泰平無事で余裕があったので、遅番を同じくする男のスタッフと話をしていた。すると、彼が「そういえば、あの、妊娠の話聞いた?」とおれに言ってきたのだ。とりあえず知らんぷりをして、「や、知らないです」と応えたら、「いやね、何某さんがね、アレが遅れたとかで、妊娠したかもって話なんだけど、色んなところで色んな人にしてるらしくて、知ってるかなって」 おれは昨日、変に後手に回ったことを後悔した。あのいかれた莫連女はあらゆるところで自らのまたぐらの話を喋々しているというのだ。やはりあいつは、己の妊娠をロックンロールに於けるギターかフェミニズム躍進の為のカンフル剤かなにかだと思っていやがるのだ。気違いには気違いの理屈があるように、気違いには気違いのロックンロールがあるのだろう。否定はしない。おれには分からぬことだから。けれどもおれは、こういう人間を問答無用で牢屋に閉じ込められるようになりたいから王様になっちゃる。と、そう、決意した。