読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

分かる映画

音楽は本能のもので、文学は理性のものであるというのがおれの持論である。そのふたつ以外にも芸術はあるわけだが、生憎おれは絵や演劇や詩などがあまり分からないから、銘々の位置も知れない。いつか分かるようになれば重畳であるというような頼りない心持ちで、自ら分かるまで触れてみようという気はどうも起こらない。無論、分からないとはいえ、衝撃を受けるような作品に出会ったことはあるが、しかし、作者にまで関心がいかぬから、分かったとは軽はずみに言えんのですよ。おれは馬鹿だが恥知らずではないつもりです。ここで、分かるも分からないも面白いも面白くないもあやふやな芸術が登場する。少しもったいぶったような言い方をしたが、わざわざ焦らす要もないし華々しい演出なんかを用意してやるのも癪なのであっさり言ってしまうとして、その芸術の正体は、まあ、Bang! 映画である。驚いた? ピストルを撃ってみました。映画は明確な総合芸術であるから、構図や劇伴、人物の言動など、ひとつひとつの要素にあらゆる芸術の文法を捩じ込むことができる。野蛮ですねえ。しかし、そうした芸術のごった煮は、快・不快のどちらにも作用しうる。処方のやり方如何、患者如何によって、毒にも薬にもなりうる劇薬的な性格を持っているのだ。大体二時間前後、抜かりなく作り上げねばならんわけです。そればかりか、人間の役に生身の人間を使わねばならんのだから、大変だ。役者がうまい具合に底上げしている場合もあるけれど、まあ、肉体肉声でやっているわけだから、合切意のままともいかんだろう。映画は芸術の難関であると思える。映画が皆んなこの難関をくぐり抜けているとは言いがたい。というか、まあ、ほとんどが難関の渦中であたふたしている。映画にも大衆向けとそうでないものがあるのだろうが、文学に比べてその差はあいまいだと感じる。安部公房が1958年頃に「いわゆる中間小説は、とうてい芸術論の対象になどなりえないが、映画はこうした娯楽作品でさえ、けっこう芸術論の課題たりうる。」と言っていたが、今日の映画はこの性質を保ちつつ、更に枝分かれしているように思う。確かに当時よりは、はるかに映画は芸術として認められている。むしろ文学などは下火も下火、幽霊としてなんとか生き長らえているような始末で、映画の方がよっぽど芸術として評価されている印象だ。映画館も増えて、イオンシネマなんてものもあり、毎年話題作が現れ、社会現象とまで呼ばれたりする。だが、発達というのは、一方で粗製濫造という災いの種でもあるのだ。つまり、大衆への認知の当然の結果として凡作愚作が鼠算式に増え、より卑近になったわけです。元々映画は観念的ではありづらい。観客が想像するまでもなく、人間は人間として、動きは動きとして、風景は風景として、見せなくちゃ成立しないものだから。どんなに深遠な哲学を語っていても、その主人公は顔と声を持った人間であるし、背景にはなんてことないつまらぬ建物がある。内容にともなった誇張が許されぬ。映画はちぐはぐな芸術であるのだ。このちぐはぐがあやふやの印象の親である。一見陳腐だが、主人公とっては甚大な出来事は、その一見の陳腐さに飲み込まれることが多々ある。無理にこじつけもできようが、しかしその一見陳腐であるという印象は中々拭えないものだ。たとえば、その出来事をやけに乱れたカメラで撮り、そこに派手なCGを加えて、主人公の心情をナレーションを乗っけてみれば、甚大の加減は表現できるかもしれぬが、それではなんか、よく分からなくなってしまう。映画はちぐはぐであやふやなさりげない芸術であるというのがおれの感想である。アクションが過ぎるアクション映画は例外としてね。と、まあ、年間百本見るか見ないかのおれが映画のあり方についてくどくど喋々していても仕様がないので、そろそろ本題に入るが、以上の理由で、映画は分からないものがほとんどだ。物語は追えても、ちぐはぐでどうしたらいいのか判然としない。しかし、中には分かるものもある。監督や脚本家の意図を十全解説できるというわけでもないが、とにかく分かるものがある。今回は特に分かる五本を紹介しようと思う。順不同ですよ。それと、文中で物語の顚末を大胆に明かしていくかも分かりませんので、注意を怠らないでください。おれはいつでもやっちまう構えである。いやはや。ヘビと前置き、長すぎる。

 

ストップ・メイキング・センス 1984

f:id:samedatote:20170402030847j:image

今朝訃報が知らされたジョナサン・デミ監督による、ニューヨーク・パンクのバケモノ Talking Headsのライブ映画です。ライブ映画なので、無論話の筋も登場人物もありません。それだから最前から言っている、ちぐはぐやあやふやの心配はないのです。はなから斯様な安全牌に走ったせいで、情けないキツネに呼ばわりされてしまうかもしれんが、まあ、そういう映画はこれだけだから、堪忍してください。

上の画像より、デヴィッド・バーンが大きすぎるスーツを着て踊っている写真が有名ですが、このジャケットの方が、おれは、ファニー・ゲームみたいで好きなんですよ。ファニー・ゲーム自体はそこまでであるけど。

ストップ・メイキング・センスは、上映時間の約90分間、インタビューやドキュメンタリーなどは一切なく、ただひたすらTalking Headsと仲間の黒人5人が演奏して、歌って、踊りまくるだけの好ましい映画であります🐸 活力の他にはなにもない映像と共に、複雑なアフロビートの楽曲を90分間聴いてごらんなさい。おかしくなりますよ。Speaking In Tonguesが出た後に行われたツアーなので、とんでもアルバム Remain In Lightの曲もたくさん演奏される。オリジナルメンバー以外を全員黒人で固めていることからも瞭然であるが、この頃のTalking Headsは完全に頭がおかしい。薬物をやっていないと、説明がつかない。荒々しいアフロビートと裏腹に、舞台に徹底された美意識、デヴィッド・バーン神経症じみた歌声、ティナ・ウェイマスの前進も後退もしない歩行のような変な動き、とんでもない腕前のサポートの黒人がいるからあまりギターを弾かせてもらっていないジェリー・ハリソンの不憫な苦笑い、デヴィッド・バーンがビッグスーツを着るまでの繋ぎで発揮されるクリス・フランツの空元気……Stop Making Sense! タイトル通り、この映画には意味がひとつもない。この場に人間関係なんて存在しない。演者も観客もない、単純なひとつの行動なのだ。Stop Making Sense! デヴィッド・バーンが歌う詩には意味があるのだろうが、デヴィッド・バーンもそんなものは毫も意識していないだろう。歌は詩に先立つ。Stop Making Sense! この映画はどんな思想とも結びつけられぬ。一個の完成した無意味である。一個の完成した芸術である。

 

 

ほえる犬は噛まない 2000

f:id:samedatote:20170402035731j:image

殺人の追憶母なる証明で有名なポン・ジュノの長編デビュー作、且つ最も変テコな映画である。物語はあってないようなものだ。説明しろと言われても困ってしまうが、努力します。おれはひとりで会話をすることがある。ある団地で飼犬が連続で失踪し、その犯人と犯人を追う事務員の女の、うだつの上がらぬ毎日の話。これだけ。この犯人が主人公なのだが、犯人といっても、顔に傷跡のある髭面の極悪人というわけではなく、ただの益体もない普通の面構えの男であり、面構えのみならず内面も相当なもので、漫然と日々を過ごし、お偉いさんへの賄賂を工面できず中々大学の教授になれぬ男、心神喪失の気違いや、倒錯した卑劣漢であれば、まだ彼も救いがあるのだが(ヒーローに殺されれば済むので)、懶惰な生活に鬱屈しつつも、正気から抜け出せぬ人間だ。犬を絞めたり、高所から放ってしまうのも、それは、犬への愛情が他より稀薄なだけで、大いに限界に近づいてはいても、完全にいかれているわけではないのだ。可愛げの塊、ペ・ドゥナ演じる団地の管理事務所の経理の女も似たようなものだ。彼女には、男と違って養うべき家族がおらんので、いくらでもダラダラと世間を日和見していればよいのだが、彼女は名誉を求むる欲求が旺盛で、強盗を撃退した銀行事務員のニュースに心底感心していて、歌手や女優などより、殊勝な銀行事務員に本気で憧れている。又、友達と破壊した他人の車のサイドミラーを、宝物みたいに抱えて電車に乗るような馬鹿だ。この両者からルサンチマンは感じない。ただなんとなく飽き足りないだけだ。嫉妬など暇潰しの役には立たないですよ。

事件は全て団地内で起こり、団地内で展開される。ペ・ドゥナが犯人を発見し、追い又追われる二度の追走劇は、階段と廊下を行き来するだけで、車もアクロバットなアクションもない。後藤明生の小説の如く、物語が団地からほとんど外に出ない。

斯様な鬱屈・退屈の日常への意趣返しや、焦燥からの奮起などには物語は進まず、要るのか要らんのかよく分からんような挿話がありつつ、緩慢な時間の流動のある地点で終わる。男は妻の退職金を賄賂にあてて大学の教授になり、女は犬の問題にかかずらってばかりいるので団地の経理を馘首される。完結のない話だ。そもそも問題がないから道理である。しかし、ともかくふたりとも団地からは解放された。後々どうなるかは知れぬが、とりあえずは黄色いパーカーやカッパは着ない。晴れ晴れとはしないし、名声欲は満たされえぬが、無味無臭の団地からは脱出したのだ。

おれはここから哲学や問いかけを受け取らない。共感もしない。思想のない芸術は、性欲を噯にも出さない友人のようで、付き合いやすい。こういった芸術とは、色情や共感と関わりのないところで、ふざけて遊ぶだけだ。

こう書くと現実味があるばかりで面白味に欠ける凡百の映画と思われるだろうが、まあ、とにかく、観てください。実際、映画的なことはほとんど起こらない。ピストルもやくざも出てこない。不思議な死体も現れない。重量のない文学のような映画ですが、しかし、妙ちくりんなユーモアが遍在する気っ風のいい映画ですよ。

 

 

デス・プルーフ in グラインドハウス 2007
f:id:samedatote:20170404000823j:image

人気の馬鹿、クエンティン・タランティーノの監督作品であり、これも又、筋もへちまもないとんでも映画である。これは、昔、タランティーノが若い頃、アメリカのピンク映画や粗雑なアクション映画を主として上映していたグラインドハウスという形態の映画館があって、そこでかかる映画の乱暴さ猥雑さに感銘を受け、そのグラインドハウス自体を丸々再現しようと試みた作品であるらしいが、そんなものはほとんど関係なく、単純に奇矯千万な作品であって、なんとなれば、上映時間の半分以上は彼氏とどうしただのあの頃はああだっただのの空疎で悶々とした女同士の会話で、もう半分はカーチェイスというふざけた構成だからである。

スタントマン・マイクという事故殺人に性的興奮を感じる気違いが、舳先にアヒルの飾りがついていて、ボンネットにばかに大きいドクロの塗装を施した、非常に悪趣味な車で、いずれも自らの肉体に浮かれた女共が運転している車を追走し衝突して、女共を散り散りにして殺害する。当然自らも気息奄々の大怪我を負ってはいるが、興奮しているからそんなことは問題外なのであろう。映画の中盤、このスタントマン・マイクと名乗る気違いが、事故後に入院している場面が傑作で、スタントマン・マイク自身は治療され意識を失っている状態であるから、奥の方で機材に囲まれて眠っているだけなのであるが、事件の匂いを嗅ぎつけたホオジロザメの如き警官の番が手帳を眺めながら、「かかる事故は、事故に見せかけた殺人であーる! このマイクという男は、交通事故を性的に愛してやまぬ異常者であり、今後も注意せねばならぬのであーる! 本官も少々探ってみようと思ーう!」と、やけに親切に事件の構造を語ってくれ、やがてスタントマン・マイクの最大の敵となるであろうことを示唆されるのだが、以後、作中でこの警官ふたりは一切顔を表さぬ。ただ、観客への理解の手助けをしただけなのだ。映画のことを教えてくれて、ありがとうございます。

グラインドハウスと呼ばれる映画館は、環境劣悪この上なく、フィルムが汚れ、使い物にならなくなっても、上手とは言えぬ糊塗をして、上映を続けていたらしく、だめになったフィルムを取り除き無理くり繋ぎ合わせて、映像が不器用に飛び飛びになっていたり、変色していたりすることが多々あったと言うが、この映画はわざわざそういったところまで再現していて、斯様な馬鹿げた苦心惨憺はとても好ましく思う。途中、突然画面が白黒になり、しばらくそのまま物語が進んで、あるひとりの女が自販機で購った飲み物が落下する音を契機にまたカラーに戻るのだが、別に白黒も映画的な効果をあげているわけでもなければ、カラーに戻ったときも、アッ戻ったという少々のビックリ以上の感動はないのだ。ナンセンス千万。素晴らしい。

なんといっても、この映画はラストシーンが最高なのであります🐸 全快したスタントマン・マイクが二度目の襲撃を起こすのだが、相手が存外逞しい強かな女性連中であった為に、あえなく失敗してしまう。肩口を撃たれ、腕を骨折し、悲惨極まりない状態のスタントマン・マイクは、無慈悲な女たちに車から引き摺り出され、一人ひとりにとにかく殴られる。各々の打擲の音とスタントマン・マイクの情けない喘ぎ声が合わさって非常に小気味いいリズムが続き、限界を迎えたスタントマン・マイクが転倒したと同時に、ババーンという音がなり馬鹿でかいENDの文字が出る。それだけでも満足なのだが、その後にApril Marchという阿呆みたいな声の女が歌うChick Habitという阿呆みたいな曲が流れて映画が終わるのだ。あまりのことに笑うより手立てがない。この映画には教訓も物語もない。ただ骨子だけがあり、その隙間は意味のない会話とカーチェイスで埋められている。最後に女性側が勝つから、フェミニズム的な見方をしている人がたまにいるが、だとしたら女性同士の会話をいたずらに長く、又滑稽に描きすぎているので、少し無理があるだろう。圧倒的なナンセンスの応酬に、こじつけのひとつも能わない。おれもこの映画を観た後は、考えることが馬鹿らしくて仕方なかった。

他のタランティーノの作品だと、フォー・ルームスというオムニバス映画の監督作も同様に、骨子ばかりがあるナンセンスな映画であった。タランティーノの作品だけ観ても構わないが、それ以前の三本もしっかり観ておくと、ナンセンスへの耐性がナンセンスに打ち克つ、という構図がハッキリしてきて、カンゲキしますよ。

 

 

カンゾー先生 1998

f:id:samedatote:20170409015814j:image

カンゾー先生は、坂口安吾の「肝臓先生」「行雲流水」「堕落論」などを下敷きに作られた、今村昌平の映画である。これは、ようやく筋があるのだが、時折物語を破って登場人物の感情が甚だしき飛躍をするときがあり、これが実に坂口安吾らしい飛躍で、好ましいです。ここから、おれの坂口安吾に対する思いを披瀝してしまうのも手であるが、まあそれは、また別の機会にします。

ともかく、カンゾー先生には筋はあるのだが、おれはこの話の筋にカンドーしたわけではないから、省略します。どうもメンドーでなあ。こう、省略を続けて空文ばかりが溢れると、この映画自体が軽視されてしまうおそれがありますので、そろそろ美点について話しますが、まず、セリフが素晴らしいのですよ。苦心惨憺の末に獲得した肝臓のバクテリアを、努々思わぬ僥倖で獲得した顕微鏡でもって半日に及ぶ観察を続けているカンゾー先生に、看護婦の麻生久美子が飯を持ってきながら言う「先生は変わっとるなあ。飯も食わんとバクテリ見とるんか」という間抜けなセリフが、麻生久美子の声の調子と相まって、輪をかけて間抜けに聞こえる場面があるのだが、おれは既に、あの場面だけで満点をあげてしまっている。だからもう言うことはない。面目無い。しかし、その他にも変なユーモアが突如顔を表すので、見て損はなし。ラストシーンも、麻生久美子が不意に妙な気を起こして鯨をひっ捕らえようと海に飛び込み、結句失敗し、遠くで原爆が投下され、キノコ雲が肝臓の形に似ているとカンゾー先生が思うという、もはや間抜けでは片づけられない飛躍をしているので、助かりますヨ。今村昌平はこういうところが信頼できますねえ。あ、信頼できるのであります🐸

 

 

ルパン三世 ルパンVS複製人間 1978

f:id:samedatote:20170427235745j:image

これは、言うまでもなく、劇場版ルパン三世シリーズの一作目の映画であるが、一作目にして最高傑作ができてしまっている。しかし、カリオストロの城の人気に追いやられて、「ああ、金曜ロードショーでよくやってますねえ」で片付けられてしまう作品でもあるのだ。カリオストロの城がなんぼのもんじゃい、宮崎駿がなんだ、あんなもん、真っ白けじゃないか。と、啖呵を切ってみたが、おれはカリオストロの城カリオストロの城で、まあ好きですよ。今更あらすじなんか説明するような映画ではないと思うので、そこらへんはWikipediaに任せるとして、いきなりオチの話をしてしまおう。マモーは複製人間である。爺みたいな口調とは裏腹に幼児よろしく矮小な身体をしていて、しかし顔は口調に適ったしわくちゃで、又、薄紫色である(これは爺とか、そういうのじゃないけど)。不二子を拐かす上に、なにやらおぞましいクローンの研究をして、地球をひっくり返そうとしてやがるので、ルパンも黙っていられず、マモーに手をかける。ところが、中々死なぬ。タフだからではなく、単にマモー自体が複製人間で、大勢いるからだ。クローンの研究の賜物である。さてそれで、マモーの実体、マモーのオリジナルはなにかというと、これが全然理解できないのだが、巨大な脳みそなのである。最終的にマモー(馬鹿でかい脳みそ)は、全体をガラスかなんかで覆い、ロケットで宇宙に向かう。わざわざ宇宙へ行く理由は忘れてしまったが、どんな理由であれ、これは頓挫する。なんとなれば、ルパンが飛び立つ前に時限爆弾を仕掛けておいたからだ。脳みそ相手に酷なことをする。それに気がつかぬマモー(Big Brain)は、大気圏を抜けロケットを切り離して、しばらく悠々と宇宙をたゆたうのだが、やがて太陽だか月だかの天体の前で爆発・分裂・四散する。デブリがすごいことですよ、人間は罪だねえ。まあ、いずれ八郎太たちが掃除するからいいのかもしれぬ(このように、ルパンとプラネテスの世界が繋がっていると思ってる人がいたら、恐ろしいぜ)。ともかく、これはカメラで撮った映画ではありえない映画だ。巨大な脳みそはCGを使えば作れるかも分からぬが、少し空々しいだろう。まあ絵だからという建前で、メチャクチャやっている。こちらもアニメと承知で観ているから、特に空々しくは感ぜぬ。脳みその描写以外にも、アニメでしか出来えぬやり方で、アニメでしか出来えぬシーンを作っている。アニメという手法をとことんまで突き詰めた大作。その心意気、恰好いいじゃないの。おれは、恰好いいものが好きなんだ。

この映画は吉川惣司という人が監督しているらしいが、アニメに於いて監督がどういう仕事をしてるか分からぬので、これといって調べてない。ごめんなさい。ともあれ、これで終わりであります🐸 一貫しているのか、していないのか。どうだろね。