「ブンミおじさんの森」について

 

美とは、人間の錯覚であり、また、一種のイリュージョンである。芸術と美の混同はこの点に於いて起こるのだが、互いに退っ引きならぬギリギリに至ってようやく作用する。但し、芸術は人生を生き抜く為の武器であり、美は死臭充満するところにしか現れぬ卑屈な幽霊であるという、甚だしい相違がある。芸術というとすぐさま美と結びつけるような輩は、おそらく美にあてられた中毒者か飛蚊症患者である。いずれにせよ一種の病気であろう。

アピチャッポン・ウィーラセタクンの「ブンミおじさんの森」を観て、触れた美の正体は、映画の舞台の森自体にある。鬱然たる未開の森には、空腹の獣や沈着な草食動物や奇矯な昆虫などの横溢せんばかりの生が、仲良いのかわるいのかは分からんが、とにかく共存している。しかしそうした皮相の森の裏には、生などは足元にも及ばぬ死の歴史があるのだ。気ままに繁茂した植物によって陽光の入らぬ木下闇には、亡霊たちが集合して生の様子を見ている。かかる生死の渾然たる森には、不倫の写真を突きつけられたような説得力があった。その証拠に(とはいえ情況証拠に過ぎないが)、「ブンミおじさんの森」には照明に寄ってきてしまう不埒な虫共以外の生物はほとんど出てこないのだ。冒頭の水牛はブンミおじさんの前世の前世だというし、中盤の犬は完全に飼育された動物であるから例外である。生物が出てこない代わりに、幽霊や猿の精霊が登場するのだから、かなり意図的であるようだ。
冒頭の牛の逃走と、途中の女王の挿話は、両方ブンミおじさんの前世であるらしい。それだからブンミおじさんの魂は死に絆され、死に魅入られる性格があったのだ。はじめの水牛はおそらく家畜で大木に紐で繋がれているのだが、必死のジタバタで紐を切断することに成功し、草原を走って逃げ、数分後に森の中で飼主に捕縛される。家畜にとって人間は死の象徴だ。食肉になるならぬは関係なく、有無を言わさぬ奴隷扱いは緩慢な死刑である。そこから抜け出して、生の森へ帰り、死の人間の元へ連れ戻される。逆らうとどんな目に遭うのか知れたものではないので、水牛も不承不承人間についていく。死の野次馬ばかりしている猿の精霊が映されることからも、これは水牛の死である筈だ。それから、次のあばた面の女王は、水牛の受動的な死とは反対で、ナマズの声に唆されて、色白で可憐な少女に転生すべく、自ら池の中へ押し入って溺死を遂げる。このナマズも死への誘惑者として機能しているので、あまり生を感じさせぬ。「ずっとあなたを見ていた」という台詞も、オバケじみた理不尽な腕力を思わせる。ナマズの甘言に胸をつかれ、恋人の好みに適うような外見を与えるようナマズに祈りながら上着を脱いで水中に入っていく。汀から離れる毎にジャラジャラ纏っていた装飾を外していって布一枚の状態になり、水上に仰向けに浮かぶ。そして女王の股の間でナマズが翻る。このシーンの意味はまだイマイチ分かっていないが、切羽詰まって如何とも立ち行かなくなった人間が起こす自殺に似た行為であると感じた。しかし女王の願い能わず、次なる魂の容れ物は、後年腎臓をいわすことになるただの男であった。これ悲しむべし。水牛と女王の生まれ変わりであるブンミおじさんは、死に絆され死に誘惑され死に自ずから向かっていく。どてっ腹に空いた透析用の穴を指して「これはおれのカルマなんだ」と言っていた。御国の命で共産主義者を殺害したことや、農場で殺虫を繰り返したことを悔いて、そのバチであると思っているような口ぶりであったが、ブンミおじさんの死は脈々と受け継がれてきた記憶によって起こったことだ。なにも因果応報ではない。死者の呼ぶ声が森に反響している。猿の精霊はブンミおじさんの最期に目を光らせていた。森の中でほとんど宿命的な死を迎えつつあるブンミおじさんは、洞窟の中で「いままで忘れていたが、おれはここで産まれたのだ」というようなことを言う。この台詞も、森が死の象徴と考えれば簡単に説明がつく。ちょっと独善的過ぎるかな。
ともかく、おれはこの映画の筋を追っていたわけじゃないから、十全説明できる自信はないが、美の存在だけは感じえた。これまで美しいという感覚が一切分からぬ片輪者であったから、これは結構すごいことだ。欠損した指で物を掴んだ感覚である。アピチャッポン・ウィーラセタクン、美のことを教えてくれてありがとう。