頃日の状態

 

この頃、自分の中であらゆる対立した感情やそれを統べる考えやそうした構造に与しない微妙な感覚や吐き気や安楽や失望や哄笑やカウボーイやノマドや田舎者や善人や白痴や男娼や少女やスカート捲りや詩や散文や感嘆詞や略語や和製英語や三角や点や線や歪みや脳みそや肉体や精神やとにかく様々な要素が同時に存在しまとまらぬまま行動していても、虚脱したナマクラ精神だと睨みをきかせることもなく、ましてや矛盾すらも感じないで、ただ幼い気持で脱力していられるようになった。一時も満たされておらず、不安や疑念や倦怠からも解放されてないし、諸般の物事との折り合いもまだついていない筈なのに、ひどく落ち着いた感覚がある。以前ほど自覚的に生きてはいない。無論、精神のぶれや死ぬ思いの夜は前と変わらずやってくるのだが、一年や半年前のものに比べると眠りのように緩やかだ。じわじわと内攻するような向きで、苦痛の種類が変化したのだろう。今は時間の流れが手に取るように感じられて、当たり前だがその分費消の実感も増した。しかし、そんなに焦りは感じないのだ。ただ、ちょっと味気ないだけ。全てが想定をはみ出さないで起こる風なのだ。とはいえその反動からか、冗談やおふざけやイタズラは前より過剰になっていて、それはそれで面白味をちゃんと感じているから、つまらぬ惰性の繰り返しというわけでもない。他者の不正に対しては以前より抵抗がなくなったかもしれない。燃料不足からいい加減に許せるようになったというよりは、おれは被害者にならないという自信が芽生えたのだと思う。眼前の色々に参加しなくてはいけないという意識をやみくもに持たなくなったのは、多分大きな変化だ。例えばこれまでは同じ空間で好ましくない何かが行われているとき、対立という形であってもなんとか関わらなければいけないと感じていたのだが、最近ではそうした情況であっさり退場してしまうことが多い。これはそれなりの解放感もあるが、裏腹にとてつもなく物悲しいことだ。このままドアを閉め続けていくことを考えると気が狂いそうになる。だが、他者に失望すること、あるいは他者をあわれだと思うことには、とても耐えられる気がしない。身を切るに等しい悲しさを感じてまで、他者と対立するほど、おれは優しくいられない。勿論どうしても完全には退場できない関係はあって、それがある限り他者への失望が尽きることはないが、その相手はおれが大切に思っている人たちなのだろうから、何も悲しいばかりではないらしい。どうも、一切はパロディだということを強く意識しはじめてから、この変調が起こったような気がする。芸術作品に限らず、人間の状態や情況は例外なく先人たちの影響を免れられない。人間は大体同じような生理を持ち、大体同じような道を通って年を重ねる。これから生まれてくる黒人がいずれ差別されることになるように、おれも誰かが通った道を辿って、そうして月や朝日が綺麗だと感じたり、排泄の言い訳をしたりする。おれが必死こいてギリギリの状態で思いついた考えも、百五十年前のロシア人が書いていたりする。おれはおれの精神ですら完全に所有することは能わないのだ。あらゆる要素の配分のバランスが自分固有のものだとするならば、それはちょっと心許ないだろう。なんかの作品であれば影響元を披瀝することも出来ようが、自らの生理の影響元なんて分かりやしない。おれは一体誰の真似をしているのだ。もっと無邪気に野放図に生活できたらいいのだが、そうした生き方にもきっと前例はある。知らず知らずに受けている影響の途方もなさに東西を失ったような気分になる。おれはおれが輝く度にかぶりを振って恥辱を押し殺さなければならない。それはおれのものではないのだ。生憎おれは天才ではない。もし、そういう風に思われたとしても、それは通ってきた道が偶然よかっただけなのだ。シニカルな態度を取ることでかかる憂鬱を上手く回避出来たとしても、それはある種退場と似たようなもので、妄りに散財して自滅を謀りながら露悪的に笑うのと同様に熱情もすり減らしてしまうのだ。今なら人前で無意味に大声を出せる。今なら他者を面罵できる。今なら母親の面前で冗談を言える。今なら性愛だって受け容れられる。関わりのないあらゆる事件に同情することだってできるだろう。どんなにうすら寒いこともやってのける。おれはこのまま自我からも退場してしまう気がして、不安で泣きそうな気持になる。このままじゃだめだ。不健康だ。感覚に名前をつけて回るような行為はやめてしまいたい。しかし、人間の意慾はそういう性質のもので、これはどこか無感覚にならないと断ち切れまい。おれは無感覚にはなりたくない。淡い記憶と熱っぽい肉体だけを有する動物になりたくないのだ。なにがあっても、どんなに自分の感覚が疑わしくても、自ら目を潰すようなことだけは決してしてはいけない。考えることや感じることを諦めてはならない。それだけは分かっている。おれのこの状態、この懊悩もどうせ誰かが通ってきた道なのだ。どうせご丁寧に最善の答えが用意されてるのだ。胸くそが悪い。