3月24日のこと

北浦和に用があり、南浦和で乗り換えるため府中本町から武蔵野線に乗った。休日とはいえ昼過ぎの始発駅なので車内は閑散としており、他の乗客と睨めっこをすることもなく、平和に楽々と端の座席に座れた。数分後、電車が発進すると車内に風が吹いた。空調の管理された送風とは全く異なる、前髪がめちゃめちゃになるくらいの強風。はじめはどこかの窓が開いているのだと考え気に留めていなかったのだが、別段都市でも田舎でもない風景に飽き、エイモス・チュツオーラのブッシュ・オブ・ゴースツを読みはじめてからは、どうもジャマくさくて仕様がなかった。勝手に捲れる頁に苛々しながら本を閉じ、たなびく中吊り広告や流れる家並みをぼんやりと眺めながら持て余していた。大した変化のない見飽きた景色をずっと見ていると、段々と気持が落ち込んできた。とうとうおれは自らの卑小さがいやになった。本の中ではあわれな主人公が色々な幽霊たちに翻弄され、体を馬に変えられたり、木の中で泣き続けたり、フューリーロードのマックスの如く大量の幽霊に追いかけられ、何度も殺されそうになりながら頑張っているというのに、おれはちょっと風が強いくらいで機嫌を損ねている。器の広さはテントウムシ並、もうどうしようもない。わざわざテントウムシなんかを喩えに持ち出してきて、その柄の鮮やかさで落胆を緩和させようと浅知恵を働かせているところにも腹が立つ。猿や白痴とどう違う。器量もなけりゃ度胸もない。おれがブッシュの中に迷い込んでしまったら多分、悪臭幽鬼に群がった虫を見て卒倒し、それきりだ。ほんの30頁ももたない。そもそもこんな腑抜けがアフリカなんぞで生きてゆける筈もない。あまりそういうイメージのないアフリカで首吊り自殺をするだろう。遺書にはたった一言、「ごめんなさい(現地の言葉で)」。情けないったらありゃしない。締まった首も大して伸びていず、ただただ大量の糞尿を垂れて家族に迷惑をかける。半開きの赤い涙目と無様に流れ出た洟、だらしなく開いた口から見える食べかすの詰まった奥歯、その死に顔! どうしようもない阿呆だ。こんなやつを葬ってやる要はない。鳥や豚の肉との合挽きにして、その辺の犬に食わせてやってくれ。残った骨は、もう無視だ。捨ててもらうのも怪しからん。なんとなくずっとそのままにしておいて、邪魔だったらその都度足なり手の甲なりでずらしてやってくれ。先進国でずくずくと甘ったれて育った男がアフリカで暮らそうなんて罰当たりなことを考えると決まってそういうことになるのだ。アフリカで生まれたおれはきっと、そんなに黒くもない。身体能力も並の日本人と比べるとまあ確かに、くらいのものであろうし、なにより眼鏡をかけている。出たての頃の携帯用ゲームをやりすぎたためだ。眼前に広がる大自然に背を向けて……電車は西国分寺に着き、乗客がぼちぼち増えてきた。停車すると風は止むのだが、発車するとまた吹き出す。乗りはじめの人たちは困った顔をして同じ方向を見つめている。かかる妙な自己嫌悪から脱するには、世のため人のために行動するのが一番である。たとえ勘違いであっても、自分は世界の役立っていると認識していなけりゃやってられん。思い立ったが吉日、古い言葉には黙って従え。おれは敢然と風向きに逆らって歩き出した。この小癪な風は、どこかの窓が開けっぱなしになっているからに相違ない。その証拠に、最前から停車する度に風も止んでいるじゃないか。必ずや大口を開けて笑っている窓を見つけ出して閉めてみせよう。そして、その附近にいる人間を叱咤し、必要であればビンタのひとつやふたつかましてみせよう。気分の優れない人が風に当たりたいと思い開けたというならば、すぐに下車するように勧めよう。今おれが居るのは5両目の進行方向側である。したがって、この車両の窓は開いていない。心配だから一応ざっと確認したが、やはり思った通りだった。心配だったから安心した。早速4両目に入って左右の窓を睥睨し、窓に映った自分の不良っぽい目つきにうれしくなり、リッ、と舌打ちをひとつ。奥の席の窓が気になって、警戒しながら近づいてみると、変なゆがみ方をしていた。座っているサラリーマンを押し退け触れると、一面にセロハンテープが貼られていることが分かった。心臓が凍り、全身に冷たい血が巡った。「ちょっとなんだ」とサラリーマンは言うが、お前、よくこんな怖い窓の前に平然と座ってられるもんだ。しゃんとしろ。ゲンコツを見舞ってやった。サラリーマンはア然とした顔で6月まで飛んでいった。梅雨だぜ、この野郎。紫陽花とかいう、なんかよく分からない花が咲いているだろ? 「あ、ああ、咲いている。」おう、6月だからな。新小平に停車し、風は止んだ。しかし、動けばまた吹く。3両目に入ると、風が少し強くなった。びょうびょうと昔の犬のようだ。3両目は適当に見て回った。あるわけがない。君も、そう思うだろ? 途中から歩調がうまい具合になってきて、減速するのも勿体ないので、ウキウキとそのままのスピードで2両目も通過した。窓は見ていない。というか、目をつむっていた。二度転倒した。2両目だけに? 1両目に突入した瞬間、明らかに風の威力が変わった。全ての歯が内側にやや傾くくらいの突風。化粧がすっかり落ちてしまった。おれが風車だったら壊れていた。いよいよ窓のせいではないようだ。タコを踏んだような気がして、足元を見遣ると、緑色の赤子が転がっていた。完全に死んでいる。風で吹っ飛んだのだろう。母親らしい女は悲痛な声をあげて慟哭していたが、時折笑っているように見えた。とはいえ彼女のことは誰も責められまい。ひとつの感情に沈潜させてくれるような風ではなかったし、赤子の死体はかなりハッキリした緑色だったのだ。歳のせいで元々乾燥している上に海すら枯らしそうな勢いの突風が吹いているため、1両目にいる老人たちはみんな半紙のようにたわいもなく破れていた。血すら出ちゃいない。まるきり半紙だ。おれは泣きたい気分だった。最初はちょっと気にかかる程度だったのに、まさか人死にが出ているなんて! おれは関わるべきでない事に首を突っ込んでしまったのだ。君たち、人間が破れる音を聞いたことがあるかね? 実際、風の音で聞こえやしないよ。なにせ乗ってる電車の走行音さえ聞こえないのだから。この規模の風だ、これはきっと、NASAが関係しているに違いない。NASAが関係しているということは、アメリカが関わっているということで、アメリカが関わっているということは、つまり、アメリカ人が関わっているということだ‼︎ こわい、アメリカ人はカナダ人より怖い。隣の国なのに、桁外れに怖い。その隣のメキシコはもっと怖い。底抜けに治安がわるい。でも、結局宇宙が一番こわい。だって酸素がない。まあ、宇宙の話はまた今度。このNASA製の突風を上っていくと、そこにはアメリカ人全員が整列して腕組みしながらニッコリ笑ってこっちを見ていることだろう。そら見ろ、風上に人影があるじゃないか! ほら、よく見てみろ、薄ピンクのマットの上で前屈しているじゃないか! あれはまるで、ヨガじゃないか! どういうことだ! 予想に反して人影はひとつしかなく、大きさから察するに多分、ババアがヨガをしている。でも、あれは、アメリカのババアのヨガだろう。アメリカは今、そういうことになってきているらしいのだ。「ヨガですか?」「そう、ヨガ。この歳になるとヨガでもやらないとどうもねえ。」日本人だ。これは日本人のヨガだ。この風の発生源は日本のババアのヨガだ。どういうことだっ、この野郎っ、どういうことだっ。このババアは、自分のヨガから突風が出ていることに気づいているのか? その突風で甚大な被害が出ていることに気づいているのか? おれは、このババアをなんとか説得し、ヨガをやめさせなければ……いや、やめておこう。おれは健気なババアのヨガを止めるほど野暮じゃない。
電車は新秋津に着き、おれは次の電車に乗るために下車するつもりだ。停車すると同時にババアはヨガを切り上げ、一旦靴を履き、乗車してくる客に気遣って薄ピンクのヨガマットを端に寄せていた。車掌が合図し扉が閉まった。そして、ババアは靴を脱ぎマットの上に腰を下ろそうとしていた。おれは自販機で買ったレッドブルを飲みながら二台のiPhoneを取り出し、警察と消防署に同時に通報した。