行き止まり

おれが生まれて最初に見たものは光だった筈だ。たとえそれが外連味のない照らしすぎる分娩室の照明灯であったにせよ、おれはたしかに光を見たに違いない。医者は特に感動もしてない。彼にとっては業務上のよくある光景で、正直に言えば痛みに悶える腹の膨れた女の姿は醜いと思うし、気違いの鳥に似た喚き声は耳障りだ。おれは気違いの鳥に出くわしたことはないし、第一鳥の気違いの見分けもつかない。しかし、割とはっきりと気違いの鳥を思い浮かべることができるし、気違いの鳥を見たときの自分の感覚も分かる。あぶねえなとか、うるせえなとか、よく分からねえなとか、赤えなとか、そういう大まかな感想が頭の中に散乱しておりたまに、やっぱ食べたら不味いのかなとか、今日は暖かいなとか、足痛えなとか、あまり必要のない考えが顔を出す。その奥から不思議な高揚と不安が互いに干渉し合いながら宇宙船のように泰然と迫ってきて、半笑いを浮かべながらまんざら不快ではない。おそらくそれは駅に向かう道中に目撃するのだろう。その後そそくさと線路沿いを歩いていく自分の姿が容易に想像できる。電車内では全く違うことを考えていて、座席の仕切りに凭れて立っている。「この先揺れますのでご注意ください」というアナウンスが流れると決まっておれは縦揺れを予想して構えてしまうが、大抵横揺れだからうまく対応できずによろめいてしまう。おっとっと、と友人がいたら口に出すだろうが、この場合、ひとりなので頭を触る。電車の自動扉が開閉する際、扉の音とはまた別に電子音が流れて、挙句赤いランプまで点灯するのは、いくらなんでも親切すぎて腹が立つ。誰向けなんだ。普段階段は一個飛ばしで上るが、混雑しているとそうはいかないし、前の人のペースに合わせて少しずつ上っていくのは軍隊みたいで好きじゃない。軍隊だとしたら、即席だから勝てっこない。十四時五十六分ってことは、ホームで九分待つのか、なんだ、アルバイトに向かう途中か、これ。くだらん、やめだ。