行き止まり

おれが生まれて最初に見たものは光だった筈だ。たとえそれが外連味のない照らしすぎる分娩室の照明灯であったにせよ、おれはたしかに光を見たに違いない。医者は特に感動もしてない。彼にとっては業務上のよくある光景で、正直に言えば痛みに悶える腹の膨れた女の姿は醜いと思うし、気違いの鳥に似た喚き声は耳障りだ。おれは気違いの鳥に出くわしたことはないし、第一鳥の気違いの見分けもつかない。しかし、割とはっきりと気違いの鳥を思い浮かべることができるし、気違いの鳥を見たときの自分の感覚も分かる。あぶねえなとか、うるせえなとか、よく分からねえなとか、赤えなとか、そういう大まかな感想が頭の中に散乱しておりたまに、やっぱ食べたら不味いのかなとか、今日は暖かいなとか、足痛えなとか、あまり必要のない考えが顔を出す。その奥から不思議な高揚と不安が互いに干渉し合いながら宇宙船のように泰然と迫ってきて、半笑いを浮かべながらまんざら不快ではない。おそらくそれは駅に向かう道中に目撃するのだろう。その後そそくさと線路沿いを歩いていく自分の姿が容易に想像できる。電車内では全く違うことを考えていて、座席の仕切りに凭れて立っている。「この先揺れますのでご注意ください」というアナウンスが流れると決まっておれは縦揺れを予想して構えてしまうが、大抵横揺れだからうまく対応できずによろめいてしまう。おっとっと、と友人がいたら口に出すだろうが、この場合、ひとりなので頭を触る。電車の自動扉が開閉する際、扉の音とはまた別に電子音が流れて、挙句赤いランプまで点灯するのは、いくらなんでも親切すぎて腹が立つ。誰向けなんだ。普段階段は一個飛ばしで上るが、混雑しているとそうはいかないし、前の人のペースに合わせて少しずつ上っていくのは軍隊みたいで好きじゃない。軍隊だとしたら、即席だから勝てっこない。十四時五十六分ってことは、ホームで九分待つのか、なんだ、アルバイトに向かう途中か、これ。くだらん、やめだ。

3月24日のこと

北浦和に用があり、南浦和で乗り換えるため府中本町から武蔵野線に乗った。休日とはいえ昼過ぎの始発駅なので車内は閑散としており、他の乗客と睨めっこをすることもなく、平和に楽々と端の座席に座れた。数分後、電車が発進すると車内に風が吹いた。空調の管理された送風とは全く異なる、前髪がめちゃめちゃになるくらいの強風。はじめはどこかの窓が開いているのだと考え気に留めていなかったのだが、別段都市でも田舎でもない風景に飽き、エイモス・チュツオーラのブッシュ・オブ・ゴースツを読みはじめてからは、どうもジャマくさくて仕様がなかった。勝手に捲れる頁に苛々しながら本を閉じ、たなびく中吊り広告や流れる家並みをぼんやりと眺めながら持て余していた。大した変化のない見飽きた景色をずっと見ていると、段々と気持が落ち込んできた。とうとうおれは自らの卑小さがいやになった。本の中ではあわれな主人公が色々な幽霊たちに翻弄され、体を馬に変えられたり、木の中で泣き続けたり、フューリーロードのマックスの如く大量の幽霊に追いかけられ、何度も殺されそうになりながら頑張っているというのに、おれはちょっと風が強いくらいで機嫌を損ねている。器の広さはテントウムシ並、もうどうしようもない。わざわざテントウムシなんかを喩えに持ち出してきて、その柄の鮮やかさで落胆を緩和させようと浅知恵を働かせているところにも腹が立つ。猿や白痴とどう違う。器量もなけりゃ度胸もない。おれがブッシュの中に迷い込んでしまったら多分、悪臭幽鬼に群がった虫を見て卒倒し、それきりだ。ほんの30頁ももたない。そもそもこんな腑抜けがアフリカなんぞで生きてゆける筈もない。あまりそういうイメージのないアフリカで首吊り自殺をするだろう。遺書にはたった一言、「ごめんなさい(現地の言葉で)」。情けないったらありゃしない。締まった首も大して伸びていず、ただただ大量の糞尿を垂れて家族に迷惑をかける。半開きの赤い涙目と無様に流れ出た洟、だらしなく開いた口から見える食べかすの詰まった奥歯、その死に顔! どうしようもない阿呆だ。こんなやつを葬ってやる要はない。鳥や豚の肉との合挽きにして、その辺の犬に食わせてやってくれ。残った骨は、もう無視だ。捨ててもらうのも怪しからん。なんとなくずっとそのままにしておいて、邪魔だったらその都度足なり手の甲なりでずらしてやってくれ。先進国でずくずくと甘ったれて育った男がアフリカで暮らそうなんて罰当たりなことを考えると決まってそういうことになるのだ。アフリカで生まれたおれはきっと、そんなに黒くもない。身体能力も並の日本人と比べるとまあ確かに、くらいのものであろうし、なにより眼鏡をかけている。出たての頃の携帯用ゲームをやりすぎたためだ。眼前に広がる大自然に背を向けて……電車は西国分寺に着き、乗客がぼちぼち増えてきた。停車すると風は止むのだが、発車するとまた吹き出す。乗りはじめの人たちは困った顔をして同じ方向を見つめている。かかる妙な自己嫌悪から脱するには、世のため人のために行動するのが一番である。たとえ勘違いであっても、自分は世界の役立っていると認識していなけりゃやってられん。思い立ったが吉日、古い言葉には黙って従え。おれは敢然と風向きに逆らって歩き出した。この小癪な風は、どこかの窓が開けっぱなしになっているからに相違ない。その証拠に、最前から停車する度に風も止んでいるじゃないか。必ずや大口を開けて笑っている窓を見つけ出して閉めてみせよう。そして、その附近にいる人間を叱咤し、必要であればビンタのひとつやふたつかましてみせよう。気分の優れない人が風に当たりたいと思い開けたというならば、すぐに下車するように勧めよう。今おれが居るのは5両目の進行方向側である。したがって、この車両の窓は開いていない。心配だから一応ざっと確認したが、やはり思った通りだった。心配だったから安心した。早速4両目に入って左右の窓を睥睨し、窓に映った自分の不良っぽい目つきにうれしくなり、リッ、と舌打ちをひとつ。奥の席の窓が気になって、警戒しながら近づいてみると、変なゆがみ方をしていた。座っているサラリーマンを押し退け触れると、一面にセロハンテープが貼られていることが分かった。心臓が凍り、全身に冷たい血が巡った。「ちょっとなんだ」とサラリーマンは言うが、お前、よくこんな怖い窓の前に平然と座ってられるもんだ。しゃんとしろ。ゲンコツを見舞ってやった。サラリーマンはア然とした顔で6月まで飛んでいった。梅雨だぜ、この野郎。紫陽花とかいう、なんかよく分からない花が咲いているだろ? 「あ、ああ、咲いている。」おう、6月だからな。新小平に停車し、風は止んだ。しかし、動けばまた吹く。3両目に入ると、風が少し強くなった。びょうびょうと昔の犬のようだ。3両目は適当に見て回った。あるわけがない。君も、そう思うだろ? 途中から歩調がうまい具合になってきて、減速するのも勿体ないので、ウキウキとそのままのスピードで2両目も通過した。窓は見ていない。というか、目をつむっていた。二度転倒した。2両目だけに? 1両目に突入した瞬間、明らかに風の威力が変わった。全ての歯が内側にやや傾くくらいの突風。化粧がすっかり落ちてしまった。おれが風車だったら壊れていた。いよいよ窓のせいではないようだ。タコを踏んだような気がして、足元を見遣ると、緑色の赤子が転がっていた。完全に死んでいる。風で吹っ飛んだのだろう。母親らしい女は悲痛な声をあげて慟哭していたが、時折笑っているように見えた。とはいえ彼女のことは誰も責められまい。ひとつの感情に沈潜させてくれるような風ではなかったし、赤子の死体はかなりハッキリした緑色だったのだ。歳のせいで元々乾燥している上に海すら枯らしそうな勢いの突風が吹いているため、1両目にいる老人たちはみんな半紙のようにたわいもなく破れていた。血すら出ちゃいない。まるきり半紙だ。おれは泣きたい気分だった。最初はちょっと気にかかる程度だったのに、まさか人死にが出ているなんて! おれは関わるべきでない事に首を突っ込んでしまったのだ。君たち、人間が破れる音を聞いたことがあるかね? 実際、風の音で聞こえやしないよ。なにせ乗ってる電車の走行音さえ聞こえないのだから。この規模の風だ、これはきっと、NASAが関係しているに違いない。NASAが関係しているということは、アメリカが関わっているということで、アメリカが関わっているということは、つまり、アメリカ人が関わっているということだ‼︎ こわい、アメリカ人はカナダ人より怖い。隣の国なのに、桁外れに怖い。その隣のメキシコはもっと怖い。底抜けに治安がわるい。でも、結局宇宙が一番こわい。だって酸素がない。まあ、宇宙の話はまた今度。このNASA製の突風を上っていくと、そこにはアメリカ人全員が整列して腕組みしながらニッコリ笑ってこっちを見ていることだろう。そら見ろ、風上に人影があるじゃないか! ほら、よく見てみろ、薄ピンクのマットの上で前屈しているじゃないか! あれはまるで、ヨガじゃないか! どういうことだ! 予想に反して人影はひとつしかなく、大きさから察するに多分、ババアがヨガをしている。でも、あれは、アメリカのババアのヨガだろう。アメリカは今、そういうことになってきているらしいのだ。「ヨガですか?」「そう、ヨガ。この歳になるとヨガでもやらないとどうもねえ。」日本人だ。これは日本人のヨガだ。この風の発生源は日本のババアのヨガだ。どういうことだっ、この野郎っ、どういうことだっ。このババアは、自分のヨガから突風が出ていることに気づいているのか? その突風で甚大な被害が出ていることに気づいているのか? おれは、このババアをなんとか説得し、ヨガをやめさせなければ……いや、やめておこう。おれは健気なババアのヨガを止めるほど野暮じゃない。
電車は新秋津に着き、おれは次の電車に乗るために下車するつもりだ。停車すると同時にババアはヨガを切り上げ、一旦靴を履き、乗車してくる客に気遣って薄ピンクのヨガマットを端に寄せていた。車掌が合図し扉が閉まった。そして、ババアは靴を脱ぎマットの上に腰を下ろそうとしていた。おれは自販機で買ったレッドブルを飲みながら二台のiPhoneを取り出し、警察と消防署に同時に通報した。

1782文字

Tは彼の友人が運転する車の後部座席に凭れ、通り過ぎる街の風景を見つめている。赤信号で停車すると、歩道の往来を眺めながら、パッとしないやつばっかりだと思う。口には出さず、人々の顔を仔細に観察しては、パッとしねえ、パッとしねえと繰り返し思う。男も女もだ。昼下がりに沈黙する家が立ち並ぶ住宅街に入り、退屈した彼はプレーヤーを操作して音楽をかけはじめる。三階建てや二階建てや駐車場やマンションやアパートのバラバラの屋根によって見え隠れする太陽がその度眩しくなるように感じ、彼は窓から目を逸らし、黙って運転している友人に、適当な歩行者を轢いて逃げるように命じたり、ハンドルやクラクションに触れたり、音楽に合わせて歌ったりして暇をつぶす。そうしたイタズラの延長で前を走る青い軽自動車を尾けるように言うと、友人は気の抜けた声で同調し、青い軽自動車と一定の間隔を保ちながらしばらく味気ない大通りを直進し続け、そのまま国道沿いの中華料理屋に入った。青い軽自動車から出てきたのは女で、小さい子供も二人いた。Tと友人は、彼女たちの向かいの席について、店員が運んできた水を飲みながら、二、三言葉を交わした。向かいの親子とは全く関係のないことだった。ライターのオイルが切れそうだとか、空調のせいでコンタクトレンズが乾くだとか、そういう言わなくてもいいようなことだった。Tはこの後、碌にメニューも見ずに野菜炒めを注文し、食べ終わってから回鍋肉にすればよかったと後悔することになる。一方、友人は何も食べずに、Tが野菜炒めを食べている間、オレンジジュースを飲んでいたので特に後悔することもなかった。窓の外の空が淀みはじめたので、雨が降るかもねとTが言うと、友人は天気予報を確認し、曇るだけさと返した。向かいの席の親子は、三人揃って炒飯を食べていた。店内のテレビでは中部地方の魚市場の特集をしており、インタビューされている男の後ろでかごの中に寝そべる魚たちの鱗が鈍く光っていた。国道には白い車ばかりが通っていたが、誰もそれに言及しなかった。会計を済ませ店を出た彼らは、自分たちの車の窓ガラスが破られているのを見つけ慌てて駆け寄ったが、荷物は盗まれていなかった。窓ガラスも割れていなかった。電柱の上にいたカラスが糞をしたが、誰にも当たらずに地面に落ちた。カラスは一回鳴いて、ラブホテルの看板に移動した。朝方になったらカラスは馴染みのゴミ収集場に向かって、残飯を漁るつもりなのだ。度重なるカラスの狼藉に耐え切れなくなった大家は、そのアパートの住人に夜間のゴミ出しを控えるように訴えているのだが、彼らには彼らの生活のリズムがあるので、必ずしも守られるわけではない。大家は収集場にネットを掛けて、カラス対策を試みるも、そのネットはやんちゃな青年によって燃やされた。当然ゴミにも引火したのだが、ちょうどコンビニに行こうとしていた住人が発見し、アパートの入り口に設置してある消火器で消火したため、大事にならずに済んだ。その住人はそのままコンビニでボールペンとノートを買い、そのことを数ページにわたって記した。それを期に日記を書くことを決心したが、一週間後には大して書くことがないのに気づき、廃止された。数ヶ月に一度、なんとなくノートを開いては、その日あったことを書こうと思うのだが、自分がした何気ない行動やぼんやり感じたことをいちいち書き連ねるのは、どうも無駄な行為だと感じてやめてしまうのだった。彼の隣人は背の高い老人で、毎朝早くに目覚めてお茶を淹れる。朝ご飯を済ますと漫然とテレビを眺めて若いタレントの名前が中々覚えられないことを自覚する。昼ご飯は散歩のついでに立ち寄る喫茶店で食べるのだが、そこの店主には中学生の子供があり、彼が学校でどのように振る舞っているのかを知りたいと思っている。彼は彼で、給食のパンが湿っぽいとか感じながら、映画が好きな友達と話したりしている。友達が好きな映画監督はクリント・イーストウッドといって、現在87歳でありながら、コンスタントに作品を作り続け、来月の頭から「15時17分、パリ行き」という題名の映画が公開されるらしい。フランスの電車内でイスラムの過激派の男が発砲した事件の話で、上映時間は94分と観やすい長さだ。フランスといえばパリだが、パリとは一体なんだろう? 都市?

頃日の状態

 

この頃、自分の中であらゆる対立した感情やそれを統べる考えやそうした構造に与しない微妙な感覚や吐き気や安楽や失望や哄笑やカウボーイやノマドや田舎者や善人や白痴や男娼や少女やスカート捲りや詩や散文や感嘆詞や略語や和製英語や三角や点や線や歪みや脳みそや肉体や精神やとにかく様々な要素が同時に存在しまとまらぬまま行動していても、虚脱したナマクラ精神だと睨みをきかせることもなく、ましてや矛盾すらも感じないで、ただ幼い気持で脱力していられるようになった。一時も満たされておらず、不安や疑念や倦怠からも解放されてないし、諸般の物事との折り合いもまだついていない筈なのに、ひどく落ち着いた感覚がある。以前ほど自覚的に生きてはいない。無論、精神のぶれや死ぬ思いの夜は前と変わらずやってくるのだが、一年や半年前のものに比べると眠りのように緩やかだ。じわじわと内攻するような向きで、苦痛の種類が変化したのだろう。今は時間の流れが手に取るように感じられて、当たり前だがその分費消の実感も増した。しかし、そんなに焦りは感じないのだ。ただ、ちょっと味気ないだけ。全てが想定をはみ出さないで起こる風なのだ。とはいえその反動からか、冗談やおふざけやイタズラは前より過剰になっていて、それはそれで面白味をちゃんと感じているから、つまらぬ惰性の繰り返しというわけでもない。他者の不正に対しては以前より抵抗がなくなったかもしれない。燃料不足からいい加減に許せるようになったというよりは、おれは被害者にならないという自信が芽生えたのだと思う。眼前の色々に参加しなくてはいけないという意識をやみくもに持たなくなったのは、多分大きな変化だ。例えばこれまでは同じ空間で好ましくない何かが行われているとき、対立という形であってもなんとか関わらなければいけないと感じていたのだが、最近ではそうした情況であっさり退場してしまうことが多い。これはそれなりの解放感もあるが、裏腹にとてつもなく物悲しいことだ。このままドアを閉め続けていくことを考えると気が狂いそうになる。だが、他者に失望すること、あるいは他者をあわれだと思うことには、とても耐えられる気がしない。身を切るに等しい悲しさを感じてまで、他者と対立するほど、おれは優しくいられない。勿論どうしても完全には退場できない関係はあって、それがある限り他者への失望が尽きることはないが、その相手はおれが大切に思っている人たちなのだろうから、何も悲しいばかりではないらしい。どうも、一切はパロディだということを強く意識しはじめてから、この変調が起こったような気がする。芸術作品に限らず、人間の状態や情況は例外なく先人たちの影響を免れられない。人間は大体同じような生理を持ち、大体同じような道を通って年を重ねる。これから生まれてくる黒人がいずれ差別されることになるように、おれも誰かが通った道を辿って、そうして月や朝日が綺麗だと感じたり、排泄の言い訳をしたりする。おれが必死こいてギリギリの状態で思いついた考えも、百五十年前のロシア人が書いていたりする。おれはおれの精神ですら完全に所有することは能わないのだ。あらゆる要素の配分のバランスが自分固有のものだとするならば、それはちょっと心許ないだろう。なんかの作品であれば影響元を披瀝することも出来ようが、自らの生理の影響元なんて分かりやしない。おれは一体誰の真似をしているのだ。もっと無邪気に野放図に生活できたらいいのだが、そうした生き方にもきっと前例はある。知らず知らずに受けている影響の途方もなさに東西を失ったような気分になる。おれはおれが輝く度にかぶりを振って恥辱を押し殺さなければならない。それはおれのものではないのだ。生憎おれは天才ではない。もし、そういう風に思われたとしても、それは通ってきた道が偶然よかっただけなのだ。シニカルな態度を取ることでかかる憂鬱を上手く回避出来たとしても、それはある種退場と似たようなもので、妄りに散財して自滅を謀りながら露悪的に笑うのと同様に熱情もすり減らしてしまうのだ。今なら人前で無意味に大声を出せる。今なら他者を面罵できる。今なら母親の面前で冗談を言える。今なら性愛だって受け容れられる。関わりのないあらゆる事件に同情することだってできるだろう。どんなにうすら寒いこともやってのける。おれはこのまま自我からも退場してしまう気がして、不安で泣きそうな気持になる。このままじゃだめだ。不健康だ。感覚に名前をつけて回るような行為はやめてしまいたい。しかし、人間の意慾はそういう性質のもので、これはどこか無感覚にならないと断ち切れまい。おれは無感覚にはなりたくない。淡い記憶と熱っぽい肉体だけを有する動物になりたくないのだ。なにがあっても、どんなに自分の感覚が疑わしくても、自ら目を潰すようなことだけは決してしてはいけない。考えることや感じることを諦めてはならない。それだけは分かっている。おれのこの状態、この懊悩もどうせ誰かが通ってきた道なのだ。どうせご丁寧に最善の答えが用意されてるのだ。胸くそが悪い。

しゃべるあたま

おれを四囲しているスズメバチの如く善悪を弁えぬ連中がわざわざ自ら社会的なる地獄に身を置いて、手に負えぬ怪力の鬼たちとの悪戦苦闘で困憊している様は、根源のハッキリせぬ患部を掻痒しながらカユいまだカユいと喚いている風だ。斯くも無惨な狂態を示して憚らぬ薄馬鹿共の横でおれがあまりに不条理な拷問を指して爆笑していると、想像力を担保に無味乾燥な配給を甘受している彼らは、痛みを堪えながら不謹慎を訴える。そんな無茶ができるなら、笑うことなど容易いだろうに。右脳をそっくり銀行に預けてしまっているからか、彼らはあらゆる物事にはひとつの顔しかありえないと考えているらしいのだ。ケルベロスに会ったら発狂するんじゃあるまいか。

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この世界では、性愛以外に救いはないという。彼らは堪えるのだ。交合と交合の空隙を。次の拷問を忍ぶ為に。怠惰で優しい肯定的な沈黙としての性、分かりやすい共犯関係としての性、ウソつきたちの必死の佯狂としての性、廉価版の愛としての性。全部同じだ。おそらく彼らにとっては快楽などは二の次で、それぞれ互いの尻尾を握り、我を孤独から救いたまえと祈ることこそが性愛なのだ。正しくないのは承知の上で、しかし他に手段はむずかしく、ウダウダと体位ばかりを試行錯誤しつづける。
祈りは祈りだ。堪ええぬ苦痛をなんとか堪えようと思うがこその絶叫だ。是非もくそもありやしない。アーメンが吐息に変わっただけだ。しかし彼らはただただ絶叫を繰り返し喉を涸らして、嗄れた声のせいで会話さえもままならない。実際に神がいるか否かはひとまず置いておいて、ともかく性愛の世界に神などいない。いるわけがない。彼らの絶叫は伝わらず、互いのからだにぶつかって消える。

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我々は衰える。耐えがたいスピードで。自我が徐々に薄れてゆき、やがて身だしなみを整える。それを成長と呼び給うな。それを善良と呼び給うな。見たいように見ることと、目を潰すことは同一じゃない。いずれ水際に行き着いてしまっても選択肢なんぞいくらでもある。

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「世界の終わりのあと、僕は電話ボックスにいる」。いくら電話をかけても、ほとんど応答はない。当たり前だ、世界の終わりのあとなのだから。みんな地獄で頑張っているのだ。しかし、ごくたまに電話が通じることがある。世界の終わりのあとなのに! 彼や彼女は、斯様な不毛の曠野にあっても自恃を失わず、見えぬ光に包まれている。魚の気分で生きながらえているのだ。
おれは多分、愛を知っている。自分の為だけじゃなく、彼や彼女の為に祈るときがある。きっと、おれも彼も彼女も、他の連中と同様に悟道に堕ちるだろう。しかし、われらはどこにあろうと見えぬ光の中にいる。圧倒的な暗闇を、月のない夜をおそれるな。すくんだそばから奪われる。これは決して果たされぬ約束だ。
われらはかならずすくわれる。不安や倦怠を握ったままで。

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大事件

このくそ暑い昼下がりに、河川敷の脇の鬱然たる草むらを、ハエ・蚊・蜂・バッタなど、おれにとっては益体もない性根の腐った虫共に襲われ又殺しながらも、止むに止まれず進んで行かねばならぬ苦労を誰が分かってくれようか。
「見つからないですねえ。どこにあるんだろ。」
この時期だとまだ見ぬがトンボもきらいだ。細すぎる。
「面倒なことしたなあ、まったく。」
カマキリも交尾の首尾が破壊的すぎるから、あまり関わりたくない。なにも好んでかかる草むらで鬱々と蟠っているわけではない。
「左手首なんて、すぐ見つかりそうなもんだけどなあ。」
斯様な高気温・高湿度のマザファカ曜日に、自ら手入れのされていない草むらに進入していくようなやつは、気違いとガキと昆虫学者くらいなもので、いずれにせよ、三者に大した変わりはない。おれはバカじゃないから、こうした無益な疲労を是としない。自らここへ来たわけじゃないのだ。
「どうです、刑事さん。前にもこんなことあったりしましたか。」「うるさい。今はまだ導入部なのだ。後で紹介するから、なるべく大人しくしていろ。しかし、おれもこんなのは初めてだよ。」
本日の未明、鬼殺県暴力市髑髏ヶ丘にある三途川の河川敷で、女性の骸が発見された。この死体がちゃんとしていれば、こうしておれが大変な思いをすることもありえなかったのだ。女性の遺体は無惨にもバラバラにされていて、手首や肘や肩、首、腰や膝や足首と、主要な関節毎に切り分けられていた。断面の肉は変色し不器用に潰れていて、おそらくトンカチのようなもので執拗に叩き、骨が砕け筋やら健が切れ、肉だけのペラペラになったところを無理くり引き千切ったのだろう。メチャクチャだ。犯人は頭がおかしい。通常バラバラ死体というと、切断した各部位をバレぬよう分散させて投棄し、我々警察に面倒な仕事を寄越すものだが、今回の犯人はそんなことはどうでもよかったようで、バラバラになった死体の各部が、左の手首以外すべて同じ場所に雑然と転がっていたのだ。この左手首の居場所を探して、なんの罪もないおれが草むらを彷徨い、汗水を垂らしているというわけである。許せぬ。犯人に如何なる深慮があろうとも、どうせそれは常人には到底分かり得ぬ深慮であって、まず犯人は正気でないと断言しよう。しかし、死体がバラバラなだけで、散らばっていなかったおかげで、女性の身元はすぐに割れた。これは助かった。被害者は、鬼殺県に生まれ、鬼殺県で育った、四千九百八十九歳の女性で、四千九百八十九年間、一度も県外で生活をした履歴がなく、現在四千九百五十年前に病死した両親の持ち家に住んでいたそうだ。いやに鬼殺県に土着した恐ろしく長生きの女性だが、それにしては、容貌若く、シミやシワやたるみなどは見られぬ。一見、二十代後半くらいに思える小綺麗な姿である。わけが分からん。ヴァンパイアだろうか。この容姿だとまだ現役で通用しそうであるが、やはり閉経の方はしっかりしているのだろうか。面白そうだから、後日警察の職権を濫用して個人的に調べてみるとする。女性は暴力市内の会社で事務をしており、業務には至って真面目に取り組み、上司からは信頼されていたようである。同僚との交際に於いては、そのバケモノじみた年齢も隠し立てせず、むしろ冗談の種などに使っていたようで、社内の半分には「妖怪女」と大人気、もう半分には「妖怪女」と甚だしく不気味に思われていたようだ。しかし、私生活は一切の謎で、分かっていることといえば、未婚であり、子供もいないということだけだ。やっぱし、閉経してるのかな。解剖医にチェックしてもらおう。親戚は元々おらず、祖父母はとっくの昔に父方母方共亡くなっている。両親が死んで関係のある血縁者は途絶えてしまったようで、以来、孤独に生きていたようだ。噂によると、四千九百八十九年の裡に名前が三回変わっているらしいが、いかんせん昔のことだから、履歴が残っている筈もなく、前の名は分からない。現在の名は痛本左代子と言い、およそ百年前から使っているらしい。やけに引っかかる。今回の事件に合いすぎている。痛本はそのまま殺害の際の打撃による痛みを表している風に思えるし、左代子となると、これは紛失した左手首のこととしか思えぬ。それに四千九百八十九年という、阿呆みたいな年齢も、四九八九、四苦八苦と、妙な符牒のような気がしてくる。これは案外、根が深い事件なのかもしれぬ。気を引き締め直さねばならん。女性の直接的な死因は、おそらくクラゲ毒だと思われる。なにかしらの方法でクラゲ毒に充てられて、妖怪女といえど、相応の症状が出たのだ、きっと。状態にはなにも表れていない、が、多分、そうだ。分かるのだ。言ってみれば、刑事の勘というか、そんな感じ。最前、バラバラの遺体を眼前にしたとき、おれは中華料理を食べた後だった。野菜炒めにキクラゲが入っていたような気もする。だからクラゲ毒。どうかね、この推理。刑事なめちゃいかんぜよ。クラゲは海で生活しているものだから、おれはバラバラ遺体の一番大きな胴体の部分を拾って、鼻を効かせてみたが、なんか、倒錯的な興奮があって、嗅覚がほとんど機能してなかったから、海の匂いは分からなかった。足首とかにしとけば、嗅覚がおかしくならんで済んだかもしれぬ。後で試してみること。
最初に「バラバラの、遺体? のようなものを見つけたんですけど。」という電話を受けたのは、なにを隠そうこのおれなのだ。えっへん。おれは遂に大事件に直面したやもしれん、もしかしたら手柄を立てられるかも? という、高揚する気持を必死で抑えながらだったから、「本当かね。ウソだったら困るよ。今、中華食べてる途中だから、あんまり変なことは言わないでもらいたい。」と、やけに横柄且つ私的な返事をしてしまったのだが、彼は気に留めない様子で「本当です。暴力市髑髏ヶ丘の河川敷です。等活橋がある近くの草むらです。」と手早く情報を伝えてくれたので、おれはすっかり信頼して、「分かりました。ありがとう。すぐに向かうから、あなたもそこで待っていてください。気味がわるいだろうけど、辛抱してね。一応、名前だけ伺っていいかな?」と訊ねたのだ。すると彼は、「はい、分かりました。死体は慣れっこなんで平気です。」という、曰くありげなこと言ってから「バラ山・ハンマー・狂太郎です。」と名乗ったのだ。あの時はバラバラ殺人事件を前にして気が急いていたし、なにやら、お祭りのような感じもして楽しかったので、なんとも思わなかったのだが、いま考えると非常に怪しい。これまた名前が事件に見合いすぎている。見合いすぎて、ミドルネームが入っている始末だ。バラとはバラバラを指していて、ハンマーとは切断に使った道具のことだろう。狂太郎は、気違いを表している名前だと思われるし、そもそも早朝に等活橋の近くの草むらでなにをしていたんだ。遺棄ではないか。遺棄を終えてすぐに通報してきたのではあるまいか。太々しい。なんて肝の据わった男だ。こういう肝の据わり方は気違い特有のものである。死体に慣れっこというのも、死体一般のことではなく、つまり医師やら葬儀屋などではあらず、殺害・切断を行ったからこの女性の死体にはもう慣れているという意味かもしれぬ。いや、これは、少し邪推が過ぎている。バイアスがかかったこじつけ推理はよろしくない。刑事の掟である。

手柄を渡すのは口惜しいので、食ってた中華を途中で止して、上司や同僚には告げず署から抜け出し、等活橋まで車をすっ飛ばした。時速二百キロだったそうだったので、一回パトロール中の同僚に止められた。この件は、後に始末書を書くこととなるだろう。等活橋に着き車から降りて、例の草むらを探して左見右見していると、橋の下から「刑事さーん。」と電話で聞いた声。手摺に凭れて見下ろすと丸坊主の若い男が手を振っていた。人死にが出ているのに不謹慎なやつだと思いながら、土手を下っていたら、足がもつれて平衡を失い、土手から転がり落ちてしまった。恥ずかしい。「刑事さん、転がるの早いなあ。」と駆け寄ってきた若者は言い、「どうも、先ほど通報させて頂いた、バラ山・ハンマー・狂太郎です。」と気持のわるい名前を当然のように名乗った。この男、虎刈りの坊主で、目の焦点が合っていない。なにより左手が二つあったのが気になった。腕は一本なのだが。手首から二つの手が生えている。不気味だ。「ああ、通報をどうも。死体、どれ?」「あれです。」「暗くてよく見えないや。」「そろそろ陽が出ますよ。」「じゃあ、それまで、一服しようや。」「僕、タバコきらいなんです。」「そうか、おれ、あっちで吸ってくるから、君、ここで待ってて。」「分かりました。その間、死体触っててもいいですか。」「だめだよ、バカ。」土手に上がってタバコを吸っていたら、凄まじいスピードで陽が昇った。長らく日の出など見てなかったから、早く思っただけかもしれぬ。急いでハンマー君の元へ戻って、愕然。えぐすぎる。死体の状態は先述した通り、知らずに見たら驚くよ。「えぐいね。」「そうですか? そこまでじゃないと思うけど。」「えぐいよ、これ。中華もどしそうだよ。」「さすがに、中華もどすほどじゃないでしょう。」「人それぞれだろ。」と、ハンマー君とは初対面なのだが、うまいこと会話が進んだ。「僕、刑事さんがタバコ吸ってる間、ずっと見てたんですけど、左手首だけないですね。」「それ以外は全部あるの?」「ありますね。」「バラバラにした意味ないじゃないか。なんだ、気味のわるい。」「ありゃ、本当ですね。」「ところで、君の左手、なに?」「ああ、僕、奇形なんです。ほら。」と、両方の左手を握って、開いた。おえ。そこでおれは、署の連中に連絡を入れ、応援を願った。連中が来るまでに土手でもう一本タバコを吸った。ハンマー君バラバラの遺体の横で、暇そうに石を蹴っていた。
同僚や鑑識が来て、上司が指揮をとった。おれはハンマー君と行動したかったので、上司にバレぬようにその場を離れ、二人で草むらの奥で手首を探すことにした。

「見つからないですねえ。どこにあるんだろ。面倒なことしたなあ、まったく。左手首なんて、すぐ見つかりそうなもんだけどなあ。どうです、刑事さん。前にもこんなことあったりしましたか。」
「うるさい。今はまだ導入部なのだ。後で紹介するから、なるべく大人しくしていろ。しかし、おれもこんなのは初めてだよ。」

ここで時系列が冒頭に戻るのだが、今のおれは冒頭のおれではない。つまり、これまでおれが抱いた事件への不審やハンマー君への疑念は、今、一気に去来したのだ。ハンマー君が恐ろしくて堪らない。こんな殺人鬼とよくも二人きりになれたものだ。無知は危険だ。そもそも、なんだ、奇形って。そんな、ウソ、この野郎。こいつ、絶対、切断した左手首と、自分の神経繋げたろ。頭おかしい。怖すぎる。「僕、怖いですか?」怖いよ。なんだよ。セリフ以外に返事するなよ。どういう理屈だよ。テレパスなのか? 手に負えない。「ははは。カマトトぶっちゃって。」笑うな。なんだこいつ。カマトトってなんだ。気違いの相手は御免だよ。「誰が気違いなんですか。あー、殺そっかなあ、どうしよっかなあ。」脅し方怖すぎるだろ。そもそもなんだよ、鬼殺県暴力市髑髏ヶ丘にある三途川とか、等活橋とか、痛本左代子とか、四千八百四十九歳とか、バラ山・ハンマー・狂太郎とか、不吉すぎるだろ。もしかして、この事件は、起こるべくして起こっているのか。この事件のために、街が作られているのか。実際に、こんな街はないのか。おい。気が狂いそうだ。「あ、そういえば、痛本左代子の死因はクラゲ毒じゃないよ。というか、そもそも死んでないんだよ。生きてもないし。いない人だから。死因なんか、ないんだよ。」よく分かんねえよ、もう。そんなの。やめてくれ。おかしくなる。「僕もいないし、刑事さんもいない。だから、痛本左代子を調べるのも嗅ぐのもしなくていいし、始末書なんて書かなくてもいい。刑事さんの同僚も鑑識もいない。いるのは、ハエ・蚊・蜂・バッタ・トンボ・カマキリだけ。あの頃はまだ、普遍的な街だったからね。一、三、五、七段落は、現実なんだけどね。最初なんて、ほら、僕たちのセリフがなければ、ちょっとしたエッセイだもの。」段落とかセリフとかエッセイとか、わけの分からんこと言うな。知るか。おれは生きてるぞ。体もあるし、これまでの人生もあったんだ。創作県小説市で生まれた、主人公原刑事郎だ。れっきとした人生があるのだ。適当なウソつくな。おれは生きてるぞ。「どうだろねえ。」だから生きてるんだってば。頼むよ。

銭ゲバ大家、無情に非ず

 

アアラ、酷いねえ。アンタ、こりゃ酷いよ。まったく参っちゃうわよねえ、ここまでされちゃうと、サスガにねえ。たしかに入居するときに「好きに生活して構わないからね」と言ったのはワタシだけどねえ、限度ってもんがあるでしょう。ほら、壁もなんなのアレ。なんて書いてあるの。ワタシには「臓器ありがとう」って書いてあるように見えるんだけど、まさか「臓器ありがとう」だなんてねえ。ワタシだってもうすっかり老眼になっちまってるから、見間違いだとは思うけどねえ。ア、やっぱり「臓器ありがとう」って書いてあるのね。あんだけ大きく書かれてたら、いくら老眼とはいえど見えるもんだねえ。まあ臓器がありがたい気持ちはワタシにも分からなくもないけどねえ。ワタシだってほら、もう若くないから毎日のように病院行くようになっちゃったんだけどね、いろんな臓器悪くして分かるのよ。人間、臓器なくちゃやってけないってねえ。しかしねえ、借家の壁に書くもの? え? 鉛筆で書いたの? アンタ、鉛筆とはいえねえ、あれじゃあしっかり跡は残っちゃうでしょう。たとえうっすらであったとしても、「臓器ありがとう」って書いてあったと知られちゃマズいのよねえ。世間体ってものがあるでしょう。ちょっとアンタ、ミルクティー飲んでんじゃないわよ。人が文句つけてるんだから。ところでアンタ、床に無数の穴ぼこが明いてるのはアンタがやったわけ? そうよねえ、前ここに住んでらした方は床使わない人だったから、床に穴ぼこが明く筈がないのよねえ。しかも無数にねえ。アンタ、フローリングだってタダじゃないのよ、分かる? 分かるわよねえ、アンタだって立派な大人だものねえ。この穴ぼこの深さはどれくらいなの? それによって埋めるか、張り替えるかが変わってくるのよねえ。はやいとこ教えてくれないと。とことん深い? とことん? そうねえ、まいったわねえ。とことん深くちゃ、埋めた方がかえって費用がかかっちゃうかも知れないねえ。ウーン、一体どうしてなの? どういうわけがあって、借家の床をとことんまで掘っちゃったわけ? しかも無数にさあ。「モグラがちょっと……」ったってねえ。モグラのせいにするんじゃないわよ。そもそもアンタ、ここ動物の飼育は許してないんだよねえ。はじめに言わなかったっけねえ。そうよねえ、言ったわよねえ。「飼っていたのと違う」ってアンタ、嘘はよくないわよ。つまりじゃあなに、モグラが闖入してきて勝手に気が済むまで掘っていったってことなの? 床を? 外でもできることなのに? 違うわよねえ、おかしいものねえ。いや、「モグラが趣味でして……」って、そりゃアンタ、つまりは飼ってたってことでしょう? 駄目よ、言い逃れは。潔くないもの。男は潔くなくっちゃ。ワタシは潔い男が好き。それじゃあ、壁も床もアンタの勝手でこんなにしたってことでいいわね? そう。もうこの調子じゃあ、ふたつとも新調しなくちゃだから、お引越しするなら四兆万、ちゃんと耳揃えてワタシのところに持っておいで。そうでなくちゃ、棍棒でハチャメチャにしてやるんだから。痛いわよ、棍棒。無骨そのものなんだから。まったくもう。なにかにおうわね。そのミルクティー腐ってるんじゃないの。美味しいったって、アンタ。飲むのやめなさい。おなか壊しちゃってもいいわけ?